(ひとつ前のブログから読んでくださいね)

高校3年になった私は

イランの首都テヘランで

とても平和な毎日を過ごしていました。

 

ところ1978年の夏頃でしょうか。

通っていたアメリカ系インターの新学期が

9月に始まって間もなく、

「反パーレビ国王、

反アメリカの動きがあって

学校が攻撃されるかもしれない」という

噂が流れてきました。

特に白人は狙われる。

スクールバスのカーテンを占めて登校し、

金髪の子はなるべく隠すように、

というお達しが(多分学校側から)出ました。

なので、ちょっと不安な空気の中

最後の高校生活を

精一杯楽しもうとしていました。

 

10月31日はハローウィンです。

私の学校でも文化祭の意味で、

Talent Show というものが予定され、

自分の歌だったり踊りだったり、

披露する場が設けられたのです。

私もピアノのひき語りで

Top of the World を歌ってみたいなと思って

先生のところでテストを受けました。

先生は歌が下手なのに歌いたがる私に困惑し、

腕組みをしたまま

「きみ、本当に出たいの?」と言いました。

私が「はい」と返事すると

「Well, okay...」みたいな、

後ろ向きのOKでした(笑)。

 

もう時系列もはっきりしませんが、

恐らくこののち、

学校に一晩留め置かれる事件が起きるのです。

 

10月に入ってからだと思いますが、

学校の周囲が焼き討ちにあい、

イスラムでは禁じられているお酒を売る

リカーショップが襲われて、

路上にお酒が散乱する事件が相次いだのです。

スクールバスのカーテンの隙間から

焼けたり、荒らされたりしている町並みをみるのは

ちょっと今思えば恐怖ですが、

18歳の私にはその危険性がピンとこなくて

あら、襲われた経営者は大変だな、

みたいな、ほとんど自分とは無縁の事が

次々に起きていると思って

のんきにしていました。

 

ところがある日、下校しようとすると、

先に出たはずのバスが校庭に次々に戻ってきました。

帰り道が危なくて通れない、というのです。

あとから出たバスは当然でられなくなり

学校の敷地がバスでいっぱいになりました。

生徒は1年生から12年生までがいましたが、

私たち12年生(高校3年)は

図書館で待つように言われました。

 

図書館の床で、皆と一緒に

眠れないねぇ〜などと言って

雑魚寝をしたような

記憶もうっすらあるのですが、

実は自分はすっかり忘れてしまって、

大人になってから母に教えられたのです。

「学校から一晩

戻れなくなった時は

本当に心配した」と。

 

とにかくこの事件が起きてから

生徒は自宅待機となりました。

そして私が出たがっていた

Talent Show も当然中止となりました。

出ていたら、恥をかいていたでしょうから、

この中止は

アラーの神様の思し召しか?。

ハロウィンが来ると、毎年、

あの革命前の不穏な空気を思い出します。

 

当時はネットなんかありませんから、

お友達との連絡方法はなかったですし、

大使館を通して

どこの国が全員国外脱出を命じた、とか

情報が流れてきました。

水に毒が入ったから飲むなとか、

スーパーから物がなくなるから

今のうちに備蓄しろ、といった

いろいろな噂が流れてきました。

 

当時テヘランには日本人学校にも

生徒が100人近くいましたから、

少なくとも500人〜1000人は日本人が

イラン国内に住んでいたと思います。

特に南部の油田のそばには

多くの日本人が勤務していたはずです。

これは当時の記録を探さないとわかりません。

 

デモが頻発するようになると

頼みのJALはすぐに

運航を取りやめました。

 

父は住友系の会社に所属していましたが、

技術指導していた工場が

地方都市にある国営企業でしたので

反王制のデモ隊が

攻撃してもおかしくない場所でした。

毎晩、テヘラン市内の

高台にあった家の窓から

下町を眺めると

デモ隊がうごめくような気配と

パンパンという銃声が

聞こえるようになってきました。

部屋の電気をなるべく消して、

母と静かにすごすようにしていました。

のんきな高校生は

それでも大して怖いと思わず、

いざとなったら

エジプトに駐留しているアメリカ軍が

助けに来てくれるんだろうなと信じていました。

そういう噂だったからです。

日本大使館には大した情報はない事が

高校生の私にも明白だったのです。

 

私は高3だったので転校するのも難しく

イランが落ち着くのだったら

そのまま残るつもりでいました。

11月にかなりの外国人が去って行き、

友人たちも帰国してしまいましたが、

うちは12月まで様子を見ました。

が、結局日本人は

全員国外脱出せよという命令が出て、

両親と私は12月8日のエア・フランスで

とりあえず

パリに逃げる事になりました。

 

当日、何とかタクシーを予約して、

テヘラン郊外のメヘラバード空港に向いました。

(今は新しい国際空港になっています)

途中はがら〜〜んとして異様な静けさでしたが、

突然反政府の人たちに襲われるのではないかと

どきどきしながら車を飛ばしてもらいました。

 

空港につくと、銃弾らしきもので?

ガラスがあちこち割れていました。

とにかく断片的にしか覚えていませんが、

エアフランス機に

何とか乗りんだのは良いのですが、

なかなか飛びません・・・💧。

じわぁ〜〜とした殺伐とした空気の中、

とりあえず食事が配られることになりました。

ほぼ6時間経っていたのです・・・

 

このまま飛行機の中に残っているうちに

デモ隊に襲われたら?と恐怖でしたが、

とにかく食べておくか、と手を付けようとしたら、

今度は「今、飛びます!」といって

スチュワーデスさんたち(当時の呼び方)が

急いで片付け始めました。

そして飛行機は飛び上がったのです。

乗客は外国人ばかり。拍手が起きました。

助かった!という思いで

一体感に包まれました。

みんな、このまま

デモ隊に襲われて終わりなのかなと

思っていたに違いありません。

 

私はそれ以来、テヘランに戻っていません。

亡命していたホメイニ師が戻り

イランはイスラムを

国教として重んじる国になりました。

いつも買い物をしていたパーレビ通りも

(パーレビ王の名前がつけられていた)

革命後は名前が変わってしまいました。

でも1971年に建てられたアザディ・タワーは

名前は変わったけれど、当時のままです。

帰りたいなぁ〜としみじみ思う。

でも私はやっぱり革命前の人間ですからね。

変わってしまった町並みを見るのも

ちょっと寂しいかも。

 

でももう少し、イランが落ち着いたら

学校とか、住んでいた家とか、

アイスパレス(スケート場)とか、

思いでの場所を巡ってみたいなと

毎年、ハロウィンが近づくと、

テヘランが恋しくなる私なのです。

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