ブログのタイトルを「いつまでもプチ波瀾万丈」としたのは

私が18歳の時に「イスラム革命」に遭遇しているからです。

波瀾万丈の極み、です(笑)。

思い出しながら革命前後について書いてみます。

 

「イスラム革命」は1979年2月のことです。

アメーバをいつも読んでいる皆さんの多くが

まだ産まれていないでしょうね。38年も前になりました。

イラン国内でも革命を知らない人が

おそらく人口の半分以上を占めているのではないでしょうか?

 

私は父の仕事のために1975年

イランの首都テヘランに中学3年の時に転居しました。

当時のイランには自分のことをShah han Shah 

「王の中の王」と呼ぶほどの

栄華を誇ったパーレビ国王が君臨していました。

スイスの学校で育ったパーレビ国王は

(日本では国王と呼ばれていますが、

イラン人は「皇帝」とみなしていました)

英仏を話したそうで、大変な欧米好きとして知られていました。

reza pahlavi family

女性たちはイスラム教徒の服装を禁じるほど、

女性解放にも積極的だったと言われています。

恐らくファラー王妃が美人で、賢かったからでは?と思いますが、

とても先進的な、お似合いの夫婦に見えました。

子供たちも可愛くて、長男は写真ではちょっと上に見えましたが、

さきほど調べてみたら、同い年でした。

今はアメリカに住んでいるようですね。

 

リンクを張った写真をごらんいただけばわかりますが、

今のイランからは想像がつかないような

欧米風のファミリーだったわけです。

インドネシアのスハルト大統領や

フィリピンのマルコス大統領と同じ路線の

富と権力を持った独裁者とみなされてもいました。

 

1978年夏までのテヘランはとっても平和でした。

16歳〜7歳の私がひとりで乗り合いタクシーで出かけても

危ないめに合う事もないほど、

とっても善良な人たちばかりだったように思います。

家族を大事にする倫理観が強く、

結婚している女性には手を出さないと言われていたので、

親は私に指輪を買い与え、

何か聞かれたら「結婚していると言え」と言っていましたっけ。

 

学校はアメリカ系インターナショナルスクールで

毎朝スクールバスが迎えに来てくれました。

記憶が定かではないですが、確か金曜日がお休みで、

よく街の中心部に出来た百貨店にひとりで買い物に行きました。

国民の大半がムスリム(イスラム教徒)だったはずですが、

いわゆる欧米のファッション

そのままの洋服が売られていましたし、

日本のような美しい四季がありましたので、

セーターとか探しに行ったりしていました。

女性たちは手足が見えるワンピースも普通に着ていました。

全く「中東のイスラムの国」には見えなかったのです。

当時欧米でヒットしていた ローリングストーンズやKISSなど

ポップスもロックも海賊版カセットテープが売られていました。

学校でもイラン人の子供

(とは言ってもお金持ちの子弟ばかりですが)

カセットデッキを持ち込んで欧米の音楽を聞いていました。

 

ケンタッキーフライドチキンも一軒だけあって、

コールスローがちょっと味が違っていたけど、

良く買って食べていました。

まもなくマクドナルドも来るらしいという噂が流れていました。

中心部には中層のビルも建ち始め、

建設ブームが始まろうとしていたようです。

父はパーレビ王朝が経営するガラス会社の

技術指導をしていたのですが、

建設ブームをささえるべく、

イランはガラスを国内で生産していたのでした。

 

当時の私の趣味はアイススケートで、

毎週のように国で唯一と言われていた

「Ice Palace」という名前だったかなぁ

アイススケート場まで

スケート靴をぶら下げて、歩いて通っていました。

 

そこでお金持ちイラン家庭の子弟たちと一緒に滑ったり

ハンバーガーを食べたりして、遊んでいたのです。

百貨店には乗合タクシーを呼び止めて、行き先をいって交渉します。

行き先が合うと乗せてもらえる訳で、

今思えば、よくうちの親は私を行かせたな、と思うけれど(笑)

私はぼろぼろの乗り合いタクシーを常用していました。

バザールという庶民の市場に行くときなどは

目立ちすぎないようにチャドールという足下までのケープを

頭からすっぽりかぶっていましたが、

普段はごく普通の中高校生の私服、という格好でした。

出来たばかりの4〜5階だての百貨店の一番上の階には

いわゆるキャンティーンというか定食屋があって、

これとこれと料理を指せば盛り合わせてくれるので、

そこで黄色いサフランライスと蒸したチキンが乗ったご飯を

良く買って食べていました。美味しかった。

ペルシャ料理はとても美味しいんですよ。

牛肉かマトンを串焼きにして

焼いたトマトと生タマネギをぱらぱらご飯で食べる

チェロキャバフは絶品ですので、ぜひお試しください。

 

六本木にアラジンという中東系の料理を出す店があって

イラン大使館御用達ですし、

イラン人のボーイさんもいるけれど、

残念、レバノンとか

他の中東地域の料理も混じっていて、

ピュアに「イラン料理」じゃないんですね。

だからテヘランを離れてからは15年後に

ロンドン出張のときにテヘラン取材の経験のある当時の

総局長にイラン料理屋に連れて行ってもらって

ご馳走になったイラン料理と、

去年、イラン大使館の

革命記念日のパーティーの

イラン料理が最高でした〜〜。

大久保のほうにもお店があるらしいのですが、

うちはイラン人の初老の

メイドさんがお料理が上手で、

(メイドさんの息子さんはイランイラク戦争を

生き抜けたのかなぁと気になっています)

家でもサブジー(野菜)を

煮たものやら食べていたし、

本場の味に慣れていたので、

なんだか東京のイラン料理を食べると

昔の味を忘れてしまいそうで、

怖いので避けているのです。

 

イランの話をし始めると、止まりません。

15歳から18歳半まで3年半も過ごしました。

私にとっては忘れられない第二の故郷です。

最近やっとマシにはなったけれど

長年「悪の枢軸国」として

世界中から厄介者扱いされてきた国です。

「好き」なんてなかなか言えませんでしたよ、ほんと。

自分にとっては実家みたいなものなのに、

あまりにもねぇ、イスラム革命後のイランは

世界から攻撃されてしまいましたもん。

イスラム化が悪いとは思いません。が、

あの情熱的で、自由人で、人懐っこくて

あんなに欧米文化もロックも大好きだった人たちが

革命直後の厳しい状況の中で

よくおとなしく政権に従ったものだと感心します。

政変というものは恐ろしいものです。

 

つい長くなり、政変のことまで到達しませんでした。

上下に分ける事にしますね。

###