初めまして。新入りです。

とは言っても56才、もしかしてこのブログの中でも最年長に近いのではw?

大学卒業と同時にNHKに記者として就職、

29年間も報道に携わってきました。

今春、55才からフリー・ジャーナリスト、日英司会者として

少しずつ活動を始めたところです。良く言えば遅咲き、悪く言うと遅すぎ。

タイトルの通り、この56年、波瀾万丈でした。

「プチ」をつけたのはいつも自分や家族が

命に関わるような目に遭いながら、何故か結果オーライになるからです。

私もしぶとく生きて、心の病にすらなっていません。

強運なのか?悪運が強いのか?まだ答えがわかりません。

 

でも波瀾万丈の極めつけが56歳で始めるこのブログかも(笑)?

 

そもそも私のプチ波瀾万丈は10歳の夏に始まりました。

ある日、ボンボンベッドに寝転んでいた10歳の私に父が寄ってきました。

「パパがもし海外に行ったら・・・どうする?」

 

若い人はご存知ないですが、ボンボンベッドとは

昭和40年代に大流行していたビニール製の折りたたみ式の椅子で、

現代ではプールサイドに置かれているような

リクライニングするタイプのものです。

いま、ちょっとググってみたら、何と〜!まだ販売されていますねw。

3000円くらいですねぇ。

当時は画期的な、庶民でもリゾート気分を味わえる人気商品でした。

 

うちのボンボンベッドはパステルグリーンでした。

というか、そういう色くらいしか売られていなかった時代です。

その上に「とど」のように寝転んでいた私は、

(とは言っても、当時はスレンダーな10歳の美少女だったので、

いま現在の体重◯キロの私が寝そべっているのを想像してはいけません💦)

ボケた頭で叫びました。「海外っ???行く〜〜!!」

 

平成28年のいま、海外旅行なんて珍しくも何ともないです。

ところが昭和40年代、1970年前後の日本は

昭和39年に東京オリンピックが終わってほっとしたばかりのひよっこ。

海外に行くなんて、本当に稀なことで、

「アップダウンクイズ」(毎日放送)に優勝すると

ハワイ旅行がプレゼントされるほど、特別なことだったんです。

 

当時、父は働き盛りの40歳前後、

高度成長期のメーカーの駐在員として、

海外勤務を打診されていたのでしょう。

10歳の私が海外に興味津々だったのを確認して、

ほっとしたような嬉しそうな顔をしたのを思い出します。

 

そして12歳、小6の秋、

私は伊丹から羽田経由でマレーシアに旅立ちました。

成田はまだありませんでした・・・

 

日本の航空機は「日本航空JAL」しか

海外には飛んでいなかったと思います。

パスポートをどうやって取ったか?すっかり忘れてしまいましたが、

飛行機に乗る前に鶴のマークが入った四角い大きなバッグを

青と赤、4人家族分、もらったと記憶しています。

アップダウンクイズで優勝者が

プレゼントされていたバッグと同じだぁ❤️と思いました。

 

国際線に乗ると、機内食が出てきました。

オトナの中に12歳の私と10歳の弟が乗っています。

フライトのクルーの中で一番偉い人だったのでしょう、

男性のパーサーが私たちの座席まで挨拶に来てくれて、

「これから海外に住むの?凄いねえ〜」とほめて?くださったあと、

機内食を説明してくれました。

「これ、何かわかる?」と平べったいものをパーサーが指差し、

「ハム?」と私は答えました。するとパーサーが

「これはね、牛タンだよ。牛の舌だよ」と。

 

1972年の小6です。牛タンなんて、

そんなお洒落なもん知るはずがありません・・・

おそるおそる私は牛タンの端っこを噛んで・・・😱絶句。

とにかく気味が悪かった事しか覚えていません。

 

いまでは大好物の牛タンを食べると、

あのパーサーの笑いを堪えたような表情を思い出します(笑)。

 

あれれ?ブログって、こんなに長く書いて良いのでしょうか?

とにかく父のマレーシア転勤にくっついて行った

あの12歳から、あの牛タンから、私の波瀾万丈が始まったのです。

きょうはここまで。

この調子で56歳まで喜怒哀楽、延々ハプニングが続きますです。

覚悟してください(笑)。###