⑧『峠』㊦ 多くの人ひきつける河井の人物像 | 元世界銀行エコノミスト 中丸友一郎 「Warm Heart & Cool Head」ランダム日誌

元世界銀行エコノミスト 中丸友一郎 「Warm Heart & Cool Head」ランダム日誌

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司馬遼太郎生誕100年 作品にみる横浜⑧

 

掲題の2023年9月15日付産経ウェブ記事。

ご参考まで。

 

作中には「港崎(みよざき)遊郭」のことがでてくる。

 

「港崎町にゆく。この遊里は吉原を小規模にしたような遊里で、やはり大門(おおもん)があり、それを入ると仲之町の通りがあってその右側に四軒の茶屋がある。青楼(せいろう)は岩亀楼(がんきろう)、神風楼(じんぷうろう)をはじめとして大まがきが十二軒あり」

にぎやかさは江戸の吉原にまさるともおとらない、とある。

 

遊郭があったのは、プロ野球・横浜DeNAベイスターズの本拠地、横浜スタジアムのある横浜公園(横浜市中区)で、河井も遊郭にあがっている。開港により外国人や全国から集まる人々のため、吉原や長崎の丸山遊郭をまねてつくられた。

 

この遊郭は、慶応2(1866)年10月20日の大火で焼けている。作中ではその焼け跡に河井が行くのである。

「慶応二年十月二十日、朝の四つ(十時)檜山(ひやま)から火がでましてね(中略)。この大火は港崎町遊郭を全焼させただけでなく、よほどの規模で、死者だけで四百何人だった」

 

この大火は「慶応2年の大火」という。朝方、日本人居住地から出火、夜10時まで燃え続け、イギリス一番館など外国人居留地の4分の1、日本人町の3分の1を焼き、遊郭は完全に焼け落ち、多くの遊女が焼死した。この火事がもとで横浜の町づくりが近代的になったともいわれ、港崎遊郭の跡地は横浜公園となったのである。

河井は『峠』によって、その名が全国に知られるようになった。

 

「今度は、教科書にほんの1~2行しか出てこない人物の長編を書くよ」と司馬先生は友人にはなしたという。それが『峠』のことだった。当時、河井の名は全国的にはしられておらせず、信濃川流域でのみしられた人物といわれていた。それがいまやドラマになり、映画になり、新潟県長岡市と福島県只見町には「河井継之助記念館」が建てられた。河井という人物の才能に加え、『峠』で描かれた人物像に多くの人がひかれたのであろう。

 

最後に河井の先見性が分かる書簡を紹介したい。万延元(1860)年3月7日、河井が義兄の梛野(なぎの)嘉兵衛に宛てたものである。

 

「天下の形勢は早晩大変動を免がれずべきと存ぜられ候。 (中略)攘夷などの愚蒙(ぐもう)なる、申す迄(まで)もこれ無く、海防の事、御大切には相違これ無くも、朝廷隣国の御交際は一層の大事、(中略)外国との御交際は、必然免がれず御義と存じ候。然(しか)る上は、公卿(くぎょう)も 覇府(はふ、幕府のこと)もこれ無く、政道御一新、上下一統、富国強兵に出精を要する事、第一義なるに、何時(いつ)迄も御治 世移り変わりなきものと量見(りょうけん)候らはば浅慮此(せんりょこ)の上無し、慨敷(なげかわしき)次第に候。(中略)小藩の事、力及ばず候。此の上は精々(せいぜい)藩政を修め、実力を養ひ、(中略)追々(おいおい)外人を真似(まね)て、風態(ふうたい)制度の一変せん事、或(あるい)は近きに在りか」(『河井 継之助傳(でん)』)=おわり