日経平均が最高値の1989年はどんな年だったのか 「喪が明けた感覚」など2024年と「3つの共通 | 元世界銀行エコノミスト 中丸友一郎 「Warm Heart & Cool Head」ランダム日誌

元世界銀行エコノミスト 中丸友一郎 「Warm Heart & Cool Head」ランダム日誌

「経済崩落7つのリスク」、
「マネー資本主義を制御せよ!」、
「緩和バブルがヤバい」、
「日本復活のシナリオ」等の著者による世界経済と国際金融市場のReviewとOutlook

「国家の盛衰を決めるのは、政治経済体制が収奪的か包括的かの差にある」(アシモグルら)

昨日の東洋経済オンライン記事。

執筆者は双日の吉崎達彦チーフエコノミスト。

かなり説得的。

 

なお、筆者は89年当時、

ワシントンDCにある世銀勤務のため、

平成バブルの実態の詳細

(「喪が明けた感覚」等)を、

さほど知らない。

 

その意味で個人的にも興味深い。

 

いずれにしても、バブルを潰したのが悪いのか、

それともバブル増幅をそもそも許したのが悪いのかという

究極的な二者択一の課題を突き付けられているのが、

平成バブルと令和バブルの共通点なのだろう。

 

ご参考まで。

 

とある雑誌社から、「令和バブルに乗れ!」という特集の取材を受けた。確かに日経平均株価は思い切り上昇し、3万8000円台をつけている。

 

ここまで来ると、平成元(1989)年の最高値(12月29日の3万8915円)まではあと一息だ。株価だけではなくて、北海道・ニセコのコンドミニアム・バブルとか、熊本県の半導体バブルとか、景気のいい話も確かに増えているような気がする。

 

ただし一般論として言わせてもらえば、雑誌が「バブルに乗れ!」という特集を組む頃には、バブルはすでに成熟期に至っていることが多いものである。「女性誌が株の特集をしたら暴落は近い」などとも言う。編集部としては筆者にではなく、小幡績先生(慶應義塾大学大学院教授)にお伺いしたほうがよかったかもしれない。

日経平均株価は問題点が多い株価指標

日経平均は2月中にも最高値を更新しそうで、しばらくは話題になることが多いだろう。ただしこの指標、いろいろと問題点がある。

 

便利だから皆が使っているけれども、2000年4月に行われた銘柄入れ替えは明らかな失敗であった。225種のうち30銘柄を一気に入れ替えたのだが、そこで10.68%もの下げが生じてしまった。

 

同時期のTOPIX(東証株価指数)はほとんど変わっていないので、指標としての日経平均には不連続性ができてしまった。つまり今の3万円のほうが、2000年以前の3万円よりも高いはずなのである。

 

もっともこのことを指摘すると、天下の日本経済新聞を敵に回してしまうので、大方のエコノミストやストラテジストはなるべく触れないようにしている。

 

堂々と批判したのは1月1日に亡くなった山崎元さんくらいで、当欄2017年10月の記事で指摘している(「日経平均21年ぶり高値」を素直に喜べない) 。この件は忘れている人が多いと思うので、「7年前の山崎さんの記事を読んでおけ!」と注意を喚起しておきたい。

まとめて30社も入れ替え、連続性が途切れた

そもそも論で言えば、日経平均は225種の銘柄の平均値、TOPIXは東証全体の時価総額の加重平均である。日経平均はNYダウ30種平均を、TOPIXはS&P500種指数を真似して作られた。

 

この2つの指標は、かなり違う動きをする。日経平均はファーストリテイリング、東京エレクトロン、ソフトバンクグループ、キーエンス、といった値ガサ株の影響を受けやすい(今回もそうだ)。逆にTOPIXは時価総額の大きい銀行、電力、不動産などの内需関連株を代表することになる。かくして日経平均をTOPIXで割った「NT倍率」という指標が使われたりもする。

 

その点、NYダウとS&Pはだいたい重なるようになっている。これはダウ・ジョーンズ社が、ダウ30種採用会社を小刻みに変えているからで、その辺が「秘伝のレシピ」みたいなものである。歴史が古く、権威もあるから、30社から外される会社も文句を言わない。

 

ところが2000年の日本経済新聞社は、その辺でしくじったらしい。まじめな話、日経平均の対象でなくなると、インデックス買いから外れてしまうので、会社の株価が下がるのだ。

 

察するに「御社を日経225から外させてください」とお願いに行ったところ、「日経記者はお出入り禁止!もう二度と広告も出さない!」などの嫌がらせを受けたのであろうか。結局、小まめに替えることができず、一度にまとめて30社も入れ替えることになってしまった。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というわけだ。

 

しかし採用銘柄の1割以上を一気に替えたら、さすがに指標が歪んでしまった。認めたくないものだな。おのれ自身の若さゆえの過ちというものを。以上、いかにも日本社会らしい(山崎さんが怒りそうな)お話であった。

 

とまあ、その辺の事情はさておいて、日経平均が過去最高値に限りなく接近しつつある昨今、あの平成バブルがどんなものだったか、令和バブルとはどんな違いがあるのか、思い出してみるのも悪くはあるまい。

日経平均が最高値をつけた1989年とは?

思うに昔のことを覚えているのは、年寄りの特権である。とはいえ、それを鵜呑みにしないのが、若者の特権である。昔話を好む若者が、偉くなったなんて話は聞いたことがない。だが、ふんふんと聞き流していると、たまに1割くらいはためになる話があるものだ。

 

1989年1月6日は東京都内でもしんしんと雪が降っていたが、翌7日朝に昭和天皇は崩御され、8日から新年号「平成」が始まった。そのことは誰もがご存じかと思う。ただし以下のような話は、なかなか歴史には残らない。ゆえに若い人は心して読んでほしいと思うのだが、陛下の容体が悪化したその半年前くらいから、いろんな行事が「自粛」モードとなり、日本社会全体がどこか重苦しいムードに包まれていた。

 

株式市場にも異変が起きていた。紙パルプと印刷株が値上がりしていたのである。「元号が変わる」ことは、いろんな印刷物を変える必要があることを意味する。いわば市場は「改元特需」を当て込んで動いていた。ちなみに日本のメディアが西暦を多く使うようになったのは平成以降であり、それ以前は元号の使用が圧倒的に多かったのだ。

 

問題はこの株価の変化を、当時の報道機関が説明できなかったことである。「マーケットが陛下の死を先回りして動いている」とは、畏れ多くてどこも書けなかった。当時、株の専門紙の記者をしていた大学の後輩が、「仕方がないから『情報関連で買われている』と書いています」と言って笑っていたことを懐かしく思い出す。

 

日本という国は昔からそんなふうなのだ。「Xデー」の到来とともに、それまでのもやもやした雰囲気はスーッとなくなった。そして新聞の株式欄は、「改元需要」という記事を載せたが、紙パルプと印刷株はそこが高値となり、むしろ売られた。相場格言でいう「知ったら終い」というやつである。当時、投資の初心者であった筆者は、結局「見てるだけ」だったけれども、何か重要なことを教わったと感じたものである。

 

1989年はそんなふうに始まった。この年の4月1日から導入されたのが消費税である。当時は3%だったから、金額的にはそれほどでもなかったが、皆が怒ったのは財布の中で急増した1円玉の煩雑さである。数人でランチに行った際の割り勘など、面倒で仕方がない。ちなみにこのときは年商3000万円までの事業主は、消費税は免税であった。インボイス制の導入は、実に34年後のこととなる。

 

消費税への不満は、折からのリクルート事件によって増幅された。これもまた一種のバブルによる犯罪であって、当時は新興企業だったリクルート社が、値上がり確実な未公開株を政官界にバラまいていたことが世間全体の怒りを呼んだ。ひとつには1987年のNTT株第1次放出で、あっちこっちに「株成金」がいたことも、不快感を加速したのであろう。

 

7月の参議院選挙で自民党は大敗した。総理大臣は竹下登から宇野宗佑へ、そして海部俊樹へと目まぐるしく入れ替わった。思うに政治が安定していなくても、株価が上がることの妨げにはならない。このことは令和バブルの現在もまったく同じであるように見える。

 

この年の国際情勢は激動の連続だった。6月4日には天安門事件が発生民主化を求める人々を人民解放軍が容赦なく弾圧する様子に世界は戦慄した。翌月にパリのアルシュで行われたG7サミットでは、欧米諸国が中国を強く非難する中で日本はむしろ庇う側であった。今と違って中国経済はまだまだ小さく、世界経済への影響は限定的であった。

 

この年最大の事件は、ベルリンの壁の崩壊である。11月9日、東西ドイツを分け隔てていた壁が、ベルリン市民の手によってあっけなく撤去されたのだ。東欧諸国は雪崩を打ったように民主化し、ルーマニアのチャウシェスク政権が年末に倒れるまでは一気呵成であった。「冷戦が終わる!」「平和の配当がやってくる!」という高揚感の中で、日経平均は12月29日に最高値をつけたのである。

平成元年と令和6年の共通点とは何か?

いささかこじつけっぽくなるけれども、平成元年と令和6(2024)年を比較すると、①喪が明けた感覚(現在はコロナ明け)、②国際情勢は激動、③国内政治は迷走、という3点が共通していると言えようか。ただしそれ以外のことは、あまり比較しようがない。

 

1989年の筆者は日商岩井(現双日)の広報室で勤務していた。ちょうどその頃、広報室内に「IRチーム」が初めて設置されたのだが、当時の筆者は「IRって何?」「なんでそんなことを広報がやらなきゃいけないの?」がまるで理解できなかった。今から35年前というと、投資をめぐる諸制度はまだまだ未整備であったのだ。

 

そしてこの年の12月、日本銀行第26代総裁に三重野康氏が就任する。プラザ合意以降の金融緩和局面の長期化に危機感を抱いていた三重野氏は、急ピッチで公定歩合を引き上げる。当時の地価高騰はまことに凄まじく、「皇居を売れば、カリフォルニア州が買える」などと言われていたものだ。当時の新聞社説欄は皆、「バブルつぶし」に賛成で、三重野氏を「平成の鬼平」と呼んで称えたものだ。

 

かくして1990年以降の株価は下落の一途をたどり、「失われた10年」「失われた30年」につながっていく。今回の令和バブルは、平成バブルのような「打ち上げ花火」に終わらず、ある程度の寿命を維持してほしいものである(本編はここで終了です。この後は競馬好きの筆者が週末のレースを予想するコーナーです。あらかじめご了承ください)。