…新時代への移行期に「平成の残滓」が噴出した歴史的必然と見ればいい
特に、筆者は、ワシントンDCの世界銀行に勤務していた1987~1996年の9年間に関しては、
まさに「令和のリクルート事件」
岸田文雄政権の瓦解が止まらない。自民党安倍派の政治資金パーティを巡る一連の問題で、政権の要である松野博一官房長官らが辞任する可能性が高まっている。12月11日に発表された産経・FNN合同世論調査によれば、内閣支持率22.5%と、過去最低を更新した。
岸田首相の内心を察すれば、いま起こっていることは、岸田政権の問題ではなく、自民党安倍派の問題だという認識だろう。悪いのは安倍派なのに、なぜ自分が非難を受けねばならないのかと、憤懣(ふんまん)やるかたない思いなのかもしれない。
だが、普段、アジアを俯瞰的かつ歴史的に見ている私からすると、今回の一件は、そのような「単純な事案」ではない。日本が「平成の時代」から「令和の時代」に変わっていく際に起きる「生みの痛み」である。「平成の膿(うみ)の露出」と言ってもよい。
つまり「平成の日本」を牽引してきた自民党安倍派が、「令和の時代」になっても、「平成的なこと」をやり続けていることに対する懲罰と見るべきだ。
そのことは、メディアが今回の一件を、「令和のリクルート事件」と報じていることからも明らかだ。まさに言い得て妙である。
リクルート事件は、竹下登政権時代の1988(昭和63)年6月18日、『朝日新聞』が、東京南西郊の川崎駅の西口再開発に関連して、リクルート社から川崎市の助役にリクルート・コスモス株が譲渡されたと報じたことがきっかけで火がついた。リクルート・コスモス社は、1986(昭和61)年10月30日に上場を
果たしており、譲渡者は濡れ手に粟の利益を手にすることができた。
リクルート事件は、ほどなく「政界ルート」へと火が燃え移った。中曽根康弘、竹下登、宮澤喜一、安倍晋太郎、渡辺美智雄……派閥の領袖クラスにも、リクルート・コスモス株が譲渡されていたことが発覚したのだ。そこから国会は、リクルート事件への追及一色となった。
事件が発覚して約半年後の12月9日に、宮沢蔵相が辞任した。政権運営に危機感を感じた竹下首相は、暮れの12月27日に内閣を改造。ところが、わずか3日後の12月30日、長谷川峻法務大臣も、リクルートから献金を受けていたことが発覚して、辞任に追い込まれた。
翌1989年1月7日に昭和天皇が崩御、元号が平成に変わった。だが政界の火の粉は収まらず、1月24日に原田憲経済企画庁長官が、リクルートに政治資金パーティ券の購入を依頼していたことが発覚して辞任した。
4月26日、竹下首相自身にも捜査の手が伸びるや、金庫番だった青木伊平秘書が自殺。5月22日には藤波孝生元官房長官が、受託収賄罪で在宅起訴され、同25日には中曽根前首相が証人喚問を受けた。同29日には、宮沢前蔵相秘書ら国会議員秘書4人が、政治資金規正法違反で略式起訴された。
こうして万事休すとなった竹下首相は、6月3日に内閣総辞職したのである。それによってようやく、リクルート事件は幕引きとなった。
「昭和の時代」から「平成の時代」へ
いまにして思えば、リクルート事件は、日本という国が「昭和の時代」から「平成の時代」に変遷していく際に起きた「痛み」「膿」と言えた。換言すれば、「平成の時代」になっても、政界が「昭和的なこと」を相変わらずやり続けていたことに対する懲罰である。
昭和というのは、日本にとって「上昇と外向きの時代」だった。それは、明治維新から連綿と続いてきたものだ。
昭和前期に、日本は軍事的に台頭した。台湾と朝鮮半島を植民地化したばかりか、中国や東南アジアに侵攻し、東京は軍事的な「アジアの首都」だった。アジア最大の軍事大国として、世界最大の軍事大国であるアメリカにも戦争を挑んだほどだ。
そうした「軍事大国の時代」は、1945(昭和20)年に敗戦したことで、幕を閉じた。だが昭和後期は、「奇跡の高度経済成長」を成し遂げ、「経済大国の時代」を迎えた。東京は経済的に「アジアの首都」となった。
特に1980年代後半の日本は、バブル景気に沸き、自動車・電気製品・半導体など、多くの分野で日本製品が世界を席巻した。金融面でも邦銀は世界中の富を吸収し、株価は右肩上がりが続いた。
そうした昭和後期の「経済大国の時代」を象徴した最後の首相が、中曽根康弘首相(首相在位:1982年11月~1987年11月)だった。金満ニッポンを背景に、アメリカのドナルド・レーガン大統領と「ロン・ヤス関係」を結び、G7(主要先進国)のアジア唯一の代表として、「経済大国日本」を牽引した。s
ところが前述のように、1989年に昭和は終焉を迎え、平成の時代に変わった。「上昇と外向きの時代」の中曽根政権を引き継いで、1987(昭和62)年11月に発足した竹下政権のスローガンは、「気配り調整」。主な実績は、全国の市町村に一律1億円を配布した「ふるさと創生」事業と、3%の消費税導入だ。
このように竹下政権とは、多分に「下降と内向きの時代」を象徴していた。実際、日本の株価は1989年の大納会の3万8915円を頂点として、下降していった。いわゆる「バブル崩壊」である。
ところが日本社会は、こうした「昭和→平成」という潮流の変化に、すぐには対応できなかった。重ねて言うが、そうした中で「社会のひずみ」として起こったのが、リクルート事件だったのである。
竹下政権崩壊の後は、自民党を浄化するということで、クリーンさが売り物だった宇野宗佑政権が発足。だが、愛人が『サンデー毎日』で新首相の「汚い性癖」を暴露し、わずか69日で崩壊した。
その後、「政治とカネ」の問題への解決策として、1994(平成6)年に公職選挙法を改正し、中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に移行した。同年には政党助成法も定めた。つまり、「平成の身の丈に合った政治」に改めたのである。
岸田政権はいわば「平成の残滓」だった
「平成の時代」は経済的にも、「下降と内向きの時代」だった。すなわち、「失われた15年」のデフレ時代だ。12行あった大手銀行は、3大メガバンク(三菱UFJ・三井住友・みずほ)に統合され、若者たちは「超氷河期」と呼ばれる就職困難期に直面した。
そのような「平成の時代」において、「最後の花火」のような時代が、2期目の安倍晋三政権(2012年12月~2020年9月)だった。
3年3ヵ月に及んだ民主党政権から政権交代を果たした安倍首相は、「3本の矢」からなるアベノミクスを唱え、株価を上昇させた。そして6回の国政選挙に連戦連勝し、日本憲政史上最長となる2822日もの長期政権を維持した。
外交的には「地球儀を俯瞰する外交」を掲げ、「外向き志向」が鮮明だった。隣国の習近平政権にライバル心を燃やし、2期目の在任中に延べ176ヵ国・地域も訪問した。
その間、2019年5月1日に、元号が平成から令和に変わった。翌2020年(令和2)年に入ると、新型コロナウイルスが蔓延。安倍政権が得意とした「攻めの時代」から、苦手な「守りの時代」へと移行したことで、求心力を失っていき、9月に総辞職した。安倍政権は多分に、「平成的な政権」だったのだ。
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「安倍政権を引き継ぐ」として、菅義偉官房長官が新政権を発足させた。だが、安倍政権と菅政権は、明らかに「断絶」していた。
それは、菅政権が「下降と内向きの時代」を志向していたことからも明らかだ。菅首相は政権発足時、自らの実績として「ふるさと納税」を強調した。竹下元首相の「ふるさと創生」とそっくりだ。
2021年夏、コロナ禍の中で東京オリンピック・パラリンピックを強行したところで、菅政権は力尽きてしまった。10月4日に総辞職した。
オリンピックを巡っても、翌2022年8月17日、元電通専務の高橋治之被告が受託収賄で逮捕され、大掛かりなオリンピック談合疑獄に発展した。この事件も、「令和の時代」になって「平成的なイベントの膿」を吐き出したとも言えた。
そんな菅政権の跡を継いだのが、岸田文雄政権だった。菅政権が総辞職した日に、新政権を発足させた。
世間では「安倍・菅政権」と呼び、岸田政権から「別物の政権」に移行したかのように言われている。だが私の見方は異なる。
安倍政権こそは、「平成という時代を背負った最後の政権」である。続く菅政権と岸田政権は、いわば「平成の残滓(ざんし)」であり、平成から令和へと日本が移行していく過渡期の政権である。
それは重ねて言うが、昭和から平成に日本が移行していく過渡期に、竹下政権があったようなものだ。だからこそ今回の事件を、「令和のリクルート事件」と呼ぶのである。
2024年から、本当の「令和の時代」が始まる
リクルート事件によって、「昭和の政治家」たちはことごとく散っていった。同様に、平成の世を彩った自民党最大派閥・安倍派の重鎮たちも、今回の事件によって後退を余儀なくされることだろう。
そうした兆候は、昨年7月8日に安倍元首相が凶弾に斃(たお)れた時から始まっていた。安倍元首相の死後、統一教会を巡る一連の事件が噴出したが、これもまた「平成時代の残滓」である。
この2年余りの岸田外交を振り返っても、平成を彩った安倍外交とは異なるものだった。
今年5月に広島G7(主要先進国)サミットを開いたことを除けば、特筆すべきレガシー(政治的遺産)はない。広島サミットにしても、たまたま7年ぶりに議長国の順番が日本に回って来たものだ。
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しかも岸田首相は、外交の功労者だった林芳正前外相を、9月13日の内閣改造で、未練もなく切ってしまった。林前外相は、宏池会(岸田派)の後継者でもあるのに、なぜあのような仕打ちをしたのか理解に苦しむ。
昨年2月24日にロシアがウクライナに侵攻した時にも、岸田首相は世界で積極的な役割を果たしていない。今年3月21日、ようやくウクライナを訪問したが、あれは5月に広島G7サミットを主催するのに、議長である自分だけ訪問していないという負い目から行ったものだ。しかも、アメリカとイギリスにお膳立てしてもらった。
また、今年10月7日にハマスがイスラエルを攻撃して始まったイスラエル・ハマス紛争でも、G7議長の岸田首相はほとんど無力だった。10月22日には、日本を除くG7の6ヵ国で、イスラエルを支持する共同声明を発表してしまった。
上川陽子新外相が現地に入ったのは、事件から1ヵ月近くも経った11月3日のことだ。しかも同月6日、7日に東京でG7外相会合を開かねばならなくなったため、背中を押されるように駆けつけたのだ。
このように、岸田政権も菅政権と同様、「下降と内向きの政権」と言えた。
おそらく、来年2024(令和6)年から、本当の意味での「令和の時代」が始まるだろう。それは「平成の時代」よりも、さらにもう一段階、「下降と内向きの時代」になるに違いない。
21世紀の日本は「アジアの癒しの地」
すでに日本の少子高齢化は、歯止めが利かなくなってきている。総務省の最新の発表によれば、今年9月15日時点の高齢者人口は3623万人。全人口の実に29.1%にあたる。全人口の約3割が高齢者などという国は、日本以外に世界のどこにもない。
一方、厚生労働省は先月7日、今年上半期(1月~6月)の出生者数が35万2240人だったと発表した。昨年比で見ても4.1%減だ。このペースでは、ついに年間の出生者数が70万人を割り込む可能性もある。
2016年に出生者数が100万人を割り込み、「統計を取り始めた1899年以来、初めて100万人を切った」と大騒ぎになった。それからわずか7年後、70万人割れのところまで来ているのである。
これが「令和の日本」の現実だ。国力の原点である人口(及び人口形態)が、このような状態なので、「平成の時代」と同様に発展していけるはずもない。ましてや「昭和の時代」とは比較にならない。今後の日本を牽引するのは、「令和の身の丈に合った政権」になるはずだ。
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「令和の身の丈に合った政権」とは、いかなる政権か? おそらく今年、NHKの大河ドラマ『どうする家康』で、その原点が描かれてきたような、江戸時代に近い形になるのではないか。
江戸時代の人口は、3000万人前後で推移した。そして何度かの飢饉の時期を除けば、四方を海に囲まれた島国という恵まれた環境で、太平の世を満喫していた。
「令和の時代」が江戸時代と異なるのは、鎖国をしていない点だ。江戸時代の4倍の人口を養うには、他国との旺盛な貿易は不可欠であり、インバウンドの観光客効果もあった方がよいに決まっている。
政府観光局の発表によれば、今年10月の訪日外客数は、ようやくコロナ前の2019年10月を0.8%上回った。中国人だけが、2019年10月比で35.1%と振るわないが、他国・地域の訪日客でカバーしている格好だ。
そんな外国人観光客の多くが日本に求めているのは、世界最先端の電化製品でもなければ、世界最高峰のタワーやイベント会場でもない。そうではなくて、江戸時代からある「日本伝統の風物」である。おいしい水や空気、自然の景色、温泉、地産地消の食べ物といったものだ。
日本人が、とかく下に見がちな近隣のアジア諸国の観光客でさえ、「21世紀」ではなく「江戸時代」を求めて、日本を訪れるのだ。なぜなら彼らの祖国では、そうしたものは幾多の戦乱や混乱などによって、消滅してしまっているからだ。
21世紀の日本は、「アジアの癒しの地」なのである。いわば日本全体が、心地よい温泉地のようなイメージだ。
その意味で、令和の「下降と内向きの時代」も、悪い事ばかりではない。「身の丈」をわきまえれば、江戸時代のように、太平の世を十分に謳歌できるだろう。
「令和の身の丈に合った日本」に向かう過程
隣国の習近平政権が、「中華民族の偉大なる復興という中国の夢の実現」を目指すなら、勝手にすればよい。ただし、日本国の固有の領土である尖閣諸島を奪われるのは困る。そのために海上保安庁と自衛隊は、全力で防衛する必要がある。
台湾有事も困る。故・安倍元首相が口癖のように言っていたように、明らかに「台湾有事は日本有事」だからだ。
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台湾には約2万人の邦人が、中国大陸には約10万人の邦人が生活している。与那国島や石垣島などの先島諸島にも約10万人が暮らす。ひとたび台湾有事が起きれば、直接的に計22万人の日本人の有事になる。
加えて、台湾から多数のボートピープルが日本に押し寄せるだろう。台湾海峡という日本のシーレーンも、中国に支配されることになる。中東から原油が入ってこなくなれば、日本は崩壊する。
もう一つの厄介な隣国、北朝鮮も、基本的には金正恩(キム・ジョンウン)政権が好きに「強盛国家建設」を目指せばよい。軍事偵察衛星を飛ばしたければ飛ばせばよい。原子力潜水艦でも極超音速ミサイルでも、勝手に開発すればよい。核開発だって、国連から10回も制裁を受けていながら止めないではないか。
ただし、それらの兵器を日本に向けて飛ばしてもらっては困る。だから日々、警戒を怠らない。
そのために日本は、「反撃能力」こそ確保していくが、基本的には「専守防衛」であるべきだ。そもそも明治期から昭和前期にかけてのような、アジアに侵攻していく「余力」など、「令和の時代」にはもう残っていない。
というわけで、たとえ岸田政権の支持率がさらに急落したとしても、その結果、崩壊したとしても、冷静に受け止めるべきだ。それは大きなアジアの歴史の潮流の中での「必然」であり、「令和の身の丈に合った日本」に向かう過程の出来事だからだ。
そうして来年2024(令和6)年、「令和の身の丈に合った新政権」が、日本に誕生することだろう。