昨日、ある本屋さんで衝動買いをして、ほぼ3時間で一気に読破してしまった。
苫米地英人氏の「明治維新という名の洗脳」(ビジネス社)がそれだ。
帯には「維新は全てまやかしだった!』とあり、かなり印象的。
同書は,次の5章からなるもの。
第一章 明治維新を支えた金策
第二章 イギリス外交
第三章 外国商社
第四章 銀行
第五章 明治維新から150年
筆者は、マクロ経済学、国際金融ならびに証券投資論を専門にしている。
筆者のエコノミストとしての現在の最大のテーマは、なぜ日本はバブル後の長期停滞からいつまで経っても抜け出せないのかという根本的な疑問である。
かつては戦後に高度成長をとげ、ジャパン・アズ・ナンバーワンとさえ、世界から畏敬と畏怖の目でみられていた日本なのにである。
これに対する筆者の基本的な見たては次のようになる。
日本の長期低迷は、経済学に対する日本人の客観的で科学的な見方ができず、我が国は戦後特に1970年代の変動相場制に入って金ドル本位制からの離脱を余儀なくされ、米国経済政策の庇護から外れて海図なき航海を始めた途端に、経済政策を大きく誤り続けてきたというものだ。
1990年にピークをつけたバブル膨張とその後のバブル崩壊と長期停滞は誤った考え方の結果の典型例だ。我々はそこから未だに抜け出せないでいることは明らかだ。
逆に、我々はケインズ(あるいは高橋是清)のようなしっかりとした経済への見方をもてば、直ちに日本は将来のある輝く豊かな社会を取り戻すことができる。
だが、なぜ我々はそのように単純で明快である回答を、いつまで経っても見いだせないのか。
例えば、デフレ不況下に8%消費税という大幅な恒久増税が断行された。その失敗への反省もなく、今度は10%消費税も既定路線化している。盲目的な財政再建優先主義からの呪縛が続いている。
また、実現の目処がたっていない2%インフレ目標政策。しかも物価目標で日本経済が持続的成長を達成できるという理論的な保証などそもそも存在しない。
日本の経済学と経済政策は、呪術あるいは錬金術に過ぎないといっても過言ではない。
これらは、苫米地氏がいうように、日本人はいま誤った考えに「洗脳」されていて、呪縛から抜け出せないでいるというべきかもしれない。
しかも、同氏が主張するように、このような「洗脳」とその「呪縛」は、150年も続く明治維新以来のものかもしれない。
いずれにしても、日本のいまを知るには、まずもって、その歴史を振り返るしかあるまい。
こうして、筆者は、最近、日本の過去最大の失敗というべき太平洋戦争を考え、その原点としての、第一次世界大戦、日露戦争、日清戦争、明治維新そして幕末へと遡って時々考えてみるようになった。
正確にいえば、幕末があり、明治維新があり、日清・日露があり、第一次・第二次世界大戦があり、そして現代にも通じる日本人の考え方や日本社会のあり方は、基本的に誤ってきたのではないかという疑念である。
そこでの筆者の暫定的な結論は、日本は未だに我が国の近代史を正確に理解していないこと、それがためにいかに日本が輝かしい未来に向かって踏み出せていないかということだ。
我が国の隣国である韓国と中国との間では、未だに歴史問題を中心にギクシャクした関係が続いていることは遺憾だ。彼らの側の主張に無理があるとしても、戦前の日本の軍国主義や侵略史観を否定することはできない。いずれにしても、日本を含むアジアは共存共栄に向かって大きく前進できないでいるのは問題だ。
また、日本は永遠のゼロ経済成長に甘んじて、生活水準(一人当たりGDP)が低下して、少子化が進み、人口減少社会に転げ落ちようとしている。
このような時に、日本の誤った考え方に先祖帰りしている余裕など少しもないはずだ。
折しも、アベノミクス第二ステージ論がかまびすしい。
だが、その前提としての第一ステージに関する客観的な反省がない。つまり、ここでも戦前の軍部同様に、歴史的な検証が一切存在しない。
つまり、絵に描いた餅のような新「三本の矢」は、明治維新後150年の「洗脳」を増幅・強化するものに過ぎないといえば言い過ぎだろうか。
戦後曲がりなりにも確立されてきた民主主義、平和主義、そして真の資本主義とは違和感を禁じ得ない安倍政権の目指すアベノミクス。
幕末の(尊王)攘夷思想に端を発し、明治維新という洗脳によって強化された軍国主義、国家資本主義そして富国強兵策などは、究極的に、悲惨で愚かな太平洋戦争の大敗北につながった。
その明治維新の洗脳を想起させるかのようなアベノミクスの第二ステージとは、果たして我々をどこに導くというのだろうか。
こうして、「明治維新という名の洗脳」は歴史書として優れているだけでなく、現在の我が国の経済と政策課題を考察する意味でも、極めて興味深い読み物だといえるだろう。
一読をお勧めしたい。