その(77 の)あとで、まみむめ一家はオランダへ向かうわけです(オランダの部分は、37 ~71の(今)の回をご参照)。ちょっとややこしくなってきたけど、こっち(今)のシリーズは、現在から過去へ遡って行ってる方なので、次は、次にくるオランダ暮らしの話へは行かず、T島の前にいたところに戻っていきます。(今)ではもう全然なく結構な過去。15年前、2009年から2013年までの話です。場所は、中国上海市長寧区。

 なんでそんなとこに行くことになったかと言うと、夫が転職した時に、はいぼく中国わかります、中国語も話せます、と話していたから。そのうちに中国のどこかに送り込まれることは、そこの会社に採用が決まった時からだいたいわかっていた。当時は中国の成長スピードがすごくて、日本企業はみんな中国のことばかり考えてるんじゃない?というような雰囲気だった。違うかな。それはもう少し前だったかも。わからない。ビジネスマンの声が聞こえてくるところとは全然別のところで生きていたから。新聞も読んでいなかった。それに経済には興味がなかった。でも中国の経済が変わっていくせいで、上海の街の様子がどんどん変わっていくのを見るのはおもしろかった。

 夫のお正月休みの終わるタイミングで、確か1月3日、チビチビの柚2歳(娘。仮名)と、もっとチビチビだけどサイズは柚とほとんど同じくらいに大きくなった、もうすぐ1歳の研(息子。仮名)、それに2人が小さいから移動も大変だろうとついてきてくれた夫の母(一時滞在。数日後帰国。)と5人で、新しい家に入った。マンションの塔が26と、真ん中に、コンビニ的なお店、ちょっとしたホール、プール、スカッシュコート、バドミントンコート、カフェを備えた、ホイスオ(会所)というところがあり、緑いっぱい、子供の遊び場いくつも設置、水辺もあります、テニスコートもありますという大き目の公園を、塀で囲って門には警備員を配置しました、という感じの大きな集合住宅。こういうのがたくさんあった。うちは26階建てのアーシーアーハオロウヤオスーリンサンシー(22号楼1403室)14階の部屋だった。一棟一棟はペラペラで、細長くて、各階には3戸しか入っていない。隣りは、アメリカ帰りの中国ファミリーで、小学生の息子たち2人は英語ばっかりで中国語が下手というのがお母さんの悩みだった。もう一軒には、会ってもほとんど挨拶をしない年配目の中国人お二人組が住んでいるようだった。日本人は嫌いかもしれないので、できるだけただ静かにルールを守って暮らしてご機嫌を損ねないようにする。マンション公園の北側には、蘇州河が流れていて、子供部屋から、小さな船が通って、そのあと波が両岸に広がっていくのが見えた。でも北側の部屋は暖房をかけてもとても寒くて、冬にはあまり使えなかった。

 若くして成功したカップルの旦那さんの方がうちの大家さんで、ㇹアンジエ(黄傑)さんと言った。用事があると赤いオープンカーで来てくれる。奥さんは弁護士か不動産か証券会社勤めかなにか、お金をいっぱいもらえて忙しいタイプの仕事をしてるらしいきれいな人だった。黄さんは彼女のことをすぐ怒るから大変と言っていた。家は家具付きで、ソファーもベッドも全部そろえてあるんだけれど、豪華で素敵を目指してそろえられた調度品は、2歳と1歳の子供のいる家族には合っていなかった。家の真ん中へんにちょぽちょぽ水が流れるちっこい電動制御の池があったり、鷹のはく製がソファの横に飾ってあったり、北側のもう一つの部屋は、お姫様の部屋みたいなベッド、ドレッサー、タンスのセットが入っていたりした。夫は随分交渉したようだったけど、赤のオープンカーに積まれて持って帰ってもらえたのはちょぽちょぽ池だけで、鷹とお姫様、寝室入り口のつがいの巨大オウムオブジェその他は、家に残った。ある時子供の手が引っかかってオウムの尾が割れてしまい、報告すると、オウムが何かの記念で大事に思っていたㇹアンジエはとても残念がった。アロンアルファでくっつけて戻して置いたら、何をしたの?日本のマジック?!と驚いていた。



 大家さんたちは、うちが入る前にその家に数か月住んだらしかった。それでその時にきていたお掃除のお手伝いさん(アイさん)を、継続して雇ってほしいと頼まれた。確か領事館もアイさんの雇用を勧めていたと思う。彼女たちのお給料は安かったし、年子のちびっこの世話と相手は結構大変で、掃除をしてくれる人が来てくれるのは大歓迎だったので、お願いすることにした。来てくれたのは、イェンイェン(燕燕)ちゃんというとても若い女の子だった。確か21歳とかすごく若いのに、もう結婚していて、研と同じ年の男の子を田舎に置いてきているということだった。イェンイェンとは友達のようにすぐになんでも話すようになったが、意思の不疎通やそれぞれがそれまでに培ってきた常識の違いで、いろいろおもしろいことがあった。

 まず、私たちが彼女のお給料を前払いしてあげたことについて、彼女は私をタイベンラバ(ばか過ぎる)と言った。私が逃げたら大損をするじゃないと。それで私が、うまくいってる会社でもお金の回収が遅いために倒産することもあるじゃん?だから先にもらえるんだったらラッキーと思ってくれた方がうれしいけど。それに、あなた逃げないでしょう?逃げられたら、あー残念と思うよ、こんなに楽しくしてるのに、と言ったら、別の部屋に走って行ってしゃがんで泣いていた。ある時は、イェンイェンが台所から髪をびちょびちょにして出てきたので、何があったの?と驚いて聞いたら、髪を洗ったのよ、ふふふと笑った。髪はそんなに頻繁には洗わないものらしかった。ここの水道の水圧と温度が、家のよりいいからと言っていた。イェンイェンの地元では、誕生日は10年に一度、近い誕生日の人みんなまとめて祝うと聞いた。一度うちのデジカメを貸してほしいというので持って行ったら、誰かさんの誕生会で大はしゃぎする大勢の人が映っていた。写真を現像してあげたらとても喜んだ。スリムなイェンイェンに太り過ぎが気になりだした私が、どうしたらいい?ときいたら、食べるのをやめて水を飲めばいいのよ、とアドバイスしてくれた。冬に暖房をいれてると、この家は暑すぎると言うから、だって寒いじゃん?と言うと、薄着してるからよ、と。自分は汗をかいちゃって着ている服をどんどん脱いだけど、脱いでも脱いでもまだまだぶ厚いセーターがでてきた。ズボンは3本履いてると言っていた。靴下も3枚履くから靴がきついと。

 ここで柚は、2歳の4月から週に2回幼稚園に通うようになり、研は、イェンイェンと一緒に留守番もできるようになって、イェンイェンから中国語をどんどん覚えた。あんなに地元の子みたいに話していたのが、今はすっからかんに消えているのがとても不思議だけれど。そして、柚幼稚園、研イェンイェンと留守番の日には、私も出産x2以来待ちに待った自由時間が持てるようになり、市内見学を始めるに至る。