昔々、多分1980年ごろ、プレインフィールド(とある日本人のおじさん。仮名。)という日本人のおじさんがいました。おじさんは少し頑固で変わり者のところを除けば、ごく普通の、♪24時間はたら~きますよ、ビジネスマ~~ン、ビジネスマ~~ン、ジャパニ~ズ、ビジネスマ~~~ン(リゲインのコマーシャルソングより)の日本人のサラリーマンでした。おじさんの年代では珍しかったと思いますが、先駆け的にオランダに転勤になり、家族を連れてオランダに暮らすことになりました。

 (ごめんなさい。リゲインのソングの歌詞は、『24時間、働きますよ』、ではなく『24時間、戦えますか』でした。今、一応確認とネットで見てみたら判明しました。牛若丸三郎太という人が歌ったことになっている。コマーシャルにでていた時藤三郎が牛若丸三郎太役だったのかな。私の記憶が、日本人働きすぎのイメージの影響で、”働きますよ”に変わってしまっていたようです。失礼。)



 ある日、プレインフィールドおじさんは、アムステルダムセボス(直訳:アムステルダムの森)という人工的につくられた、でも今とても素敵になっていて、ジョン(ジョンについては、50をご参照)がブラックジャックと散歩したり、ヤギ公園でヤギが楽しそうに遊んでいたり、牛エリアでスコットランドハイランダースという毛長の牛が放し飼いにされたり、季節の花が咲いたり、毛虫の被害に気を付けて!の警告が出たり、私がここでキノコになりたいと切望したりする森林公園で、子供たちとキャッチボールをして遊んでいました。プレインフィールドおじさんはもちろん野球大好き(、それ以外はあんまり知らない)世代なので、子供ボーイには野球少年になってほしいと思っていました。そこへ通りかかった Robというオランダ人のおじさんが、プレインフィールドおじさんに声をかけました。



 『スピールヒーンファングバル オプゾーンオープンバレプラーツ!だッとイズへふぁ―リック。アルスイぇウィルトホンクバレン、コムダンナアーマインティーム。ダーイズへッとフェイリフクンイェナーぁハールテンルストすぺーれん(Speel geen vangbal op zo'n openbare plaats. Dat is gevaarlijk. Als je wilt honkballen, kom dan naar mijn team. Daar is het veilig en kun je naar hartenlust spelen. こんな公共の場所でキャッチボールなんかするな。危ないだろう。野球したいなら、俺のチームにくればできるぜ。そこでなら安全に、存分にプレイできるというものよ)。』

 あ、そう?ごめんなさい~、とプレインフィールドおじさんは、すぐにその森林公園でキャッチボールするのをやめ、Robおじさんに言われた場所に、土曜日に行ってみました。そこには、立派な野球場が2つとクラブハウスがあり、市の少しのお金とボランティアによる運営で、大人青年子供ちびっこ、いくつもの野球/ソフトボール/ビーボールチームが、そこで入れ替わり立ち替わり練習していることがわかりました。プレインおじさんはたいそう感心して、できるなら私も息子にここで野球をさせたい、できればここのゆるゆるチームに入れるんじゃなくて、日本人のしゃきしゃきチームを新設して、と思いつきました。そこで、日本人で野球をしたがってる子はたくさんいるんです、こんな立派な球場でやらせてもらえたらすごく喜びます、僕にもここを使わせてもらえませんか?と Rob おじさんに相談しました。Robおじさんと運営に携わるボランティアの人達は、その人達もみんなプレイヤーで監督でコーチで、子供もちびっこチームのメンバーという人たちなのですが、寛容にも、まぁいいだろうとプレインおじさんの日本人チームをグループの1つとして入れてあげることにしました。



 そこから、しゃかりプレインおじさんは自分の駐在知り合いと日本人学校とで、野球ボーイメンバーを募りました。当時はまだサッカー人気はきておらず、男の子の運動好きはみんな野球みたいな感じだったので、すぐに人員は確保でき、子供チームが結成できました。小学生チームはその時、オリジナル団体のチームが一つあったので、そっちはそのままRhamen(チーム名。仮名。) 1, プレインおじさんの日本人チームはRhamen 2 ということで、登録されました。そして立派に、オランダのその地域のリーグに入って、シーズンの週末には試合にも出られて、時にはリーグ優勝したりするほどになりました。おじさんは、なんなら俺たちも、ねえ!と自分がピッチャーで監督でコーチでオーガナイザーの日本人お父さんチームもつくり、しこたま楽しみました。



 その後、プレインフィールドおじさんの駐在任期期限がきて、おじさんには帰国するべき時となります。が、おじさんはオランダとその生活が好きになってしまったので離れられません。そこで、会社を辞めて、現地採用の仕事をして、オランダに留まることを決めます。子供が2人と奥さんもいて、結構大きな決断だったと思います。奥さんと子供たちの当時の意向については聞いたことがありませんが、おじさんは多少オクニユタカのようなところもあったので、家族の中ではお父さんがそう言ってるならそうなんだろう、またはしょうがない、の雰囲気があったのかもしれません。あるいはまた、家族もみんなオランダが大好きになっていて、プレイン氏と同じようにオランダにずっといたいと思ったのかもしれません。



 そしてRhamen につくってもらった日本人野球チームもその後長いこと存続し、まみむめ家が駐在で訪れた2016年にも、チームは元気に活動中でした。柚と晴が入部して、毎週野球を楽しませてもらうことができました。そして私も、チームの活動を支えるボランティアとして順番にクラブハウスの番をしたり、子供たち活動時のお世話をするのに加えて、人数不足だからと、子供が所属してる父母が中心でできているおじさんおばさん混合チームに、誘われて入ることになりました。私は野球もソフトボールも経験がなかったけれど、子供のようにボールをおいかけて、パンツを泥まみれにして、コケてすりむいて、とても楽しかったです。そこにRobおじさんがいました。Robおじさんは、かつては国の代表チームでキャッチャーとして活躍していたこともありますが、その時には60歳代後半で、もう本気の野球チームは引退して、その混合おじおばチームでプレイヤ―兼スペシャルコーチをしてくれていました。私や他のおばさんプレイヤーたちにスイングや守備の構えを教えてくれるとき、おしりや腰を必要以上にさわってきていやらしいところもありましたが、もうじいさんなのでいいわいと、みんなおじさんの手を振り払うくらいで、なんとも言いませんでした。そのRobおじさんは、コロナの真っ最中に、自宅の庭作業中に心臓発作で亡くなってしまいました。Rhamenのメンバーは、距離をあけて道端に整列し、Robおじさんの乗った霊柩車を見送ったそうです。私は都合がつかず、出られませんでした。チームから花を贈っただけ。プレインフィールドおじさんは多分、参列していたと思います。



 私はその後、女子ソフトボールチーム3(1は本気チーム、2は昔本気、今子育て中でなかなか練習できない経験者ママ中心チーム、3は今始めましたの平均年齢50歳以上の下手下手がはははチーム)から、人数不足中のため、技術なしオランダ語下手でも大歓迎と熱烈に招待され、おじおば混合遊びチームからそっちへ移籍しました。そのチームでもまた色々学ぶことになります。それにいては、また次回!