最近、政治関係の話に興味が向いている。

たぶんきっかけは、

http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/column/tahara/

田原さんの記事を読み出してから。

この記事がどの程度の客観性やら中立性を持ってるかは、現状のおれには判断が付かないが、

とりあえず政治の世界の仕組みをいろいろ知ることができた。

その結果、今まで日経新聞の2面を読んでいても、よくわかんないことが多かったのが、わかるようになってきた。

てか新聞に並んでる事実に対して、それの原因やらを自分なりに推測できるようになった。

政治の世界の話、どう考えても客観的には不自然な話が多い。その不自然さの理由が最近わかってきたから、興味が向くようになったんだと思う。

むしろ、その不自然さを生む複雑な構造が逆に面白いw

ということで、ちょっと政治ネタを書いてみようと思う。

浅はかな文章になるだろうけどご容赦下さい汗

「増税無き財政再建」

新党日本の田中康夫さんが、参議院選挙公示日の、一発目の演説で言ってた言葉。

一方、自民党

「消費税含む税制抜本改革を」

民主党

「消費税5%維持」

結論、消費税の5%維持は困難。ということなんだろう。

別におれは、財政がどんな状態で、どこの金がどう動いてなんて全然知らない。消費税を引き上げるとどうなるかもよくわからん。

が、自民党だけが、消費税に関して、明確な発言をしてない。

その事実が、消費税5%維持は困難っていうことを物語ってる。

所詮、野党は、参議院選挙が終わったところで、政権を担うわけではない。

逆に与党は、政治を実際に動かさないといけない。

そこに、与党と野党の発言内容の差が生まれる。

与党は、実際に政治を運営していかなければ行かない以上、無茶は約束はできない。

そんなことをしたら、今回の選挙では勝てたとしても、いずれ、公約違反とやらで叩かれる。

一方の野党はそのへん言いたい放題だ。

極論、実現可能性なんてゼロでもいい。

特に新党日本レベルになると、言いたい放題。

なんたって、実際にそれを実現する必要はないんだから。

紙の上でのみ、数字を出して、理論的に可能ですよーみたいなことを言っとけばいい。

と、このあたりが、日本の政治が腐ってる感が出る理由なんだと思った。

野党は始めから、自分たちが考える理想の日本へ!なんて考えは毛頭ない。

どうやったら与党に勝てるかどうかが絶対基準。

まぁ野党には、与党の暴走を止めるって役割もあるわけだけだから、一概にこれを否定はできないけど、少なくとも、本来の政治家としての存在理由、目的とは違うだろ。って話だ。

そこらへんが、今のおれにとって、幻滅する点であり、かつ、でも面白いと思える点だったりする。

あっ、これ以上深いこと書けないw

おわり。

今日は、NPOカタリバ

http://www.katariba.net/


にひょんなことから参加することになり、参加してきました。


このカタリバ、

簡単に言うと、高校生に将来のことを考える機会を提供するのが目的かな。


具体的には、大学生が講師として、自分が将来のビジョンを描くまでの過程だったりを話たり、

大学生が高校生に個別のカウンセリング(就活っぽく言えば自己分析)っぽいことを手伝ってあげたり。


久しぶりに高校生と絡んだ。

(事前MTとかは別としてw)高校生と絡んでる時間はすっげー楽しかった。

なんか、見てるだけで楽しかった。




じゃあ、なんで自分が教育学部にいながら学校教育を目指さなくなったのか。

これを改めて考えるキッカケになった。

だって、あれだけ楽しいけど、でも教師にはならないんだもん。



自分、教育学部です。教員養成コースです。

高校生のころ、高校の数学の先生になろうと思って、今の大学の今の学部に進学しました。


でもそもそもなんで先生になりたいって思ってたかって言うと、それはただ、高校生と戯れてるのが楽しいと思ったから。自分、後輩が大好きで、その延長線上で将来も仕事がしたいと思った。そうすりゃ楽しいっしょ。


そんな動機だった。


で、大学に入った。


大学に入って以来、自分の中で変わったことが2つある。

①教育について、ちゃんと考えるようになった。

②上昇志向が激しく強くなった。


①について。

学校で生徒を教育する。


これによって何が実現できるのか?自分は何を得られるのか?


そこをすごく考えた。


本当に子供の成長を最大限に助けたいなら、国一受けて、文部科学省にでも行けばいい。

その方が、法律ごと変えて、自分が理想とする教育に近づけることができる。


なら、教師になるとしたら、その動機はきっと、本質的な教育への情熱だけではないはず。


そこに絡んでくるのが、

「生徒の成長を間近で感じられる」

「ただ子供が好き」


ってやつだと思う。

まぁ「子供が好き」ってのはおれも満たしてるけど、


人が変わるのを実感できるってやつ。

ここにモチベを感じるからこそ、教師になろうとするんだろう。これも確実に要因のひとつ。


じゃあおれはそこにモチベを感じるかどうか?

それは否だった。


おれのモチベが維持される要因は、


少人数に濃い影響を与える < 大人数に薄くても影響を与える


こういう傾向がある。というかこの傾向が強いw


じゃあ目指すは教師では無い。という結論。





で②について。

てか本来は順序が①と②、逆の方が良かったけど、もう書いちゃったのでドンマイ。


そもそも、人を教育することへのモチベについて。


自分は、大学に入って、かなり上昇志向が強くなった。


結果、何を考えるようになったか?


それは、1つに、

「教師になって、どの程度のことが実現できる?」

「教師になって、自分はどこまで行ける?」


これ、大きな問題。教師になって、最終的に辿りつける最大到達点は、まぁ校長先生かどっかの教育委員会の役員。しかも60歳近くになってから。

言い方は悪いけど、せいぜいが知れてる。


で、教師として実現できるのは、くさい言い方だけど、「将来の日本を背負う人間を育てる」こと。

ここで、思った。


自分が、日本を背負う人間にはならないの??


これ、相当引っかかった。

自分が日本を変えるくらいのことをすればいいじゃん。と。



つまり、そもそも、少なくとも今のおれには、教育へのモチベを維持する要因が欠けてる。

てか、なるにはちょっと障壁が多すぎるwビジネスの方が、モチベ維持できる要素が多い。

よって、教師の道は、止めた。



てか思うに、教育に本当に問題意識があるなら、和民の社長(渡邊ミキ)みたくするのって、すごく効率がいい。

この人、居酒屋の和民の社長で、かつ、教育再生委員会の委員さんね。

おれが思うに、この人、もうある程度、自分の夢、目標に到達したから、教育(=後輩育成)に携わろうって思ったんじゃないかな~って感じた。

別になんの証拠もないけど。


でも、実際、渡邊ミキさんの、教育への影響力は、そこらの教師の比ではない。


なんか、これなら、おれもありかな~って思った。


(渡邊ミキさんの、教育に対する考え方は別として)、おれの人生、この人みたいな流れはありだなって。



あっ、文章の締め方がわかんないw

とりあえず、こんなこと考えました。終わりw

大前研一「考える技術」


さっき読み終わった。

実はこの本、買ったのは2年くらい前。


当時これを読んだおれは、

「なんかえらそうな文章で、自己主張してる」


くらいにしか捉えることができなかった。

しかも政治経済の話が、当時の自分には理解できなかったため、全く面白くなかった。

結果、半分くらい読んだだけで放置してた。


それから2年。


大前研一がどういう人間かも知り、もう1度手にとって読んでみた。



2年前のおれのアホさがよくわかった。。



で、読んだ感想。

相変わらず、文章は高飛車で気に食わないが…が、どれもこれもすごい。すごいというのは、そのロジックが。感覚が。共感させられるものしかなかった。

大前研一が言ってることに対して、少なくとも、読みながらの間には、否定する余地がなかった。


まぁ、おれ自身、頭の瞬発力は対したことないので、そのせいもあるかもしれないが、それにしても、納得するしかなかった。




ちょっと話は変わるが、2年前というワードが出たので。

自分でいうのもなんだが、おれは大学時代の間に、興味関心の方向性はもちろんのこと、価値観、性格もかなり変わった。

高校の後輩に、「なんか人変わりましたね」って言われるくらいに。

いや、性格はまたここ最近で昔に戻ったかなw


その中で、これまた自分で言うのもなんだが、頭の作りも変わった。

てか、頭の使い方を知ったって言った方がいいのかもしれない。


この頭の使い方を覚えたのは、大学2年生の間を通してだろう。


この前のブログで、美容師さんがテレビを鵜呑みにして・・・

みたいなこと書いたが、ぶっちゃけ、3年前ならおれも鵜呑みにしてるw


そんな自分の成長が見て取れた本だった。

いや、この本を読んで、えらそうなこと書いてるとしか感じれなかったとは・・・我ながら情けない。。。汗



今度また、大前研一の本を読んでみようと思う。

「最近、子供の虐待とか増えたよね。しょっちゅうテレビでやってるじゃん。」


今日、髪を切りに行って、おれ担当の美容師さんの発言。

この手の発言を聞くと、毎度毎度イラッとする。



つまり、虐待が増えたとする根拠にだ。


「テレビで報道される虐待の数が増えた=子供の虐待が増えた。」


この等式が成立すると信じて疑わないのが信じられない。


おれ担当の美容師さん、この傾向が強く、何かとメディアの情報を鵜呑みにする。

そして、おれはイラッとする。。。


話戻すと、

この場合、事実として存在する(だろう)ことは、


「テレビで児童虐待の報道が増えた」


ということだけ。


少し言い換えれば、

「あなたが児童虐待を聞く機会が増えた」だけ。



それが児童虐待が増えた根拠には成り得ない。


もしかしたら減ってるかもしれない。ただ、報道として、視聴率が取れるから、児童虐待をニュースにしてるだけの可能性もある。

10年前であれば、それがニュースとして、ただ価値が無かっただけかもしれない。



もし児童虐待が増えたと言い切るなら、それに足る論理的証拠(統計などの情報)を持ってこいという話だ。



と、いうと、また、政府かどっかが発表してる虐待の数の推移などを持ってくるやつが登場する。

まぁテレビじゃあよくある話だ。


そして、

「あ~虐待の数がものすごい勢いで増えてますねー。」


などと言い出す。


これでまた、だから「児童虐待は増えている」

と結論付ける。


アホかと。


まぁ百歩譲って、その虐待の数の集計が、昔から、全く同じ基準で記録されていた、つまり、よく統計学で言われるような、「他の条件はすべて同じ」だったとしよう。

しかしそれでも、まだそれが証拠になるとは言い切れない。



例えば児童虐待のニュースを5年前からテレビが頻繁に取り上げるようになり、社会問題として、一般に認識されるようになったとしよう。

そうすると、何が起こるか。


そこらのおばちゃんが、「隣の子供が虐待されてる」と、児童相談所に通報しだすのだ。


社会問題として認知されることで、それに対しての感応度が上がり、通報数が増える。

結果、把握された虐待件数が増える。


あくまで増えたのは、把握された虐待の数。


つまり、潜在的にあったものが顕在化しただけ。



・・・という可能性もある。

これはあくまで可能性であって、事実かどうかはわからない。

もしかしたら、実際に児童の虐待数は増えてるかもしれない。


ただ、おれが言いたいのは、自分の感覚値だけで結論を出すな。

与えられた情報を鵜呑みにするな。


疑え!

考えろ!


って話。

え~今日はいろんなことを考えてみたいので、連続投稿w


ビジネスの成功失敗にも才能は関係するのか?


世の中、才能が必要なことだらけだ。

極論、すべてのことにおいて才能ゼロの人間は、何もできない。

言葉を「覚えるのも「記憶力」という才能がいるという意味で。


きっと生まれた瞬間からどんなにサッカーに打ち込んで練習しても、中田にはなれない。

おれがどんなに勉強したって、東大理3はきっと無理。


でも世の中のスーパーマンたちは、才能があるから、それが実現できる。


なら、やはりビジネスの成功失敗にも才能は必要あるのか?



結論から言えば、才能は必要だ。



が、それはある程度あればいいものだと考える。


言い換えれば、努力次第でどうにでもなる割合がかなり大きいということ。


と、これを議論する前提として、ビジネスにおける成功失敗に対する運の強さは全員が同じとする。

また、ビジネスの成功失敗の定義は、あいまいなままだが、それでも議論は継続可能なので、そのまま議論する。



で、

そう考える理由は・・・

ビジネスの成功失敗に必要な才能は多岐に分類されるであろうから。




そもそも、ビジネスの成功失敗に必要な才能とは何か?

判断力、論理的思考力、行動力・・・

さまざま出てくるだろう。


では、サッカーで中田になるのに必要な才能は何か?

8割方、運動神経の問題だろう。


つまり、サッカーであれば、運動神経という部分において、大きな欠落があれば、そこで終了。

如何ともし難い壁が立ちはだかることになる。


それにくらべ、ビジネスにおいての才能は多岐にわたる。

だから、例えば、判断力が多少欠如していても、他の部分で抜群に秀でていればカバーができる。


と同時に、必要な能力が多岐にわたるため、総合すれば、個々人での差の開きに限界がある。



ゆえに、努力次第で挽回できる割合が大きいという結論。





うーん、あんまり深い議論にならないなー。



お久しぶりですw


プレゼンの重要性について。


実はちょいと前、小室さん↓

http://www.i-company.net/kintore/report/komuro.html


の生徒によるプレゼン発表会を見学に行った。


なんでこれを見に行こうと思ったかというと、8月にビジコンでプレゼンしなきゃいけないからw

プレゼン方法1つで、同じ提案もかなりの差が出るので。

と、同時に、最近、ビミョーに自分のプレゼンの様子を見る機会があって、それ見て、「下手だ」と思ったから。



で、話を戻すと、

もちろん、人のプレゼンなら、何度も見たことがある。

就活の説明会では死ぬほど聞いた。


だが、それらのプレゼンというのは、どういう意識で聞いていたかというと、

こっちが一生懸命理解しようとして聞いていた。


だから、わかりにくいなーとは思っても、なぜわかりにくいかは意識していなかった。


が、この発表会で意識することは、


そのプレゼンが理解しやすいか?

理解しにくいなら、それはなぜか?


この2点を意識して聞く。


すると、自分でもビックリするくらい、いろんなものが見えた。


ここの表現をもっとこうすればいいのに。

話の流れに矛盾があるじゃん。

パワポ資料、こうしたら見やすいんじゃない?


もう勉強になるのなんのって。


自分も練習せねば、と思う今日この頃。





で、言いたいのはこんなことじゃなくて、

意識するしないの大切さ。

言い換えれば、アンテナ張ってるか張ってないか。



人間、意識しないと、その情報は頭に入ってこない。


今回のプレゼン発表会がいい例だ。

プレゼンを見る視点が違うだけで、同じプレゼンを見ても、見えるものが違ってくる。


別にこんな固い話じゃなくても、

例えば、街を歩いていて、「あの子かわいい!」って思ったとする。

それは、女の子を見るとき、かわいいかかわいくないか。の視点で見てるから。


もし、髪が長いか長くないかの視点で見てれば、

かわいいかどうかの部分には反応しない。



ようは言いたいのは、日ごろの気持ちの持ち方一つで世界は変わるよって話っすw


もし仮に、何の情報に対しても意識してないとすると、インプットされるものは何もない。

すべては、ただの風景として流れるだけ。




また例を出すと、何かとこいつ知ってるなーってやつ、友達に1人くらいいるはずだ。


これは、日常からの意識の度合が何十年も積み重なった差だろう。


そもそも、それぞれの人間が人生において触れている情報量の差が5倍も10倍もあるわけがない。

でも実際には、めっちゃ物知りなやつと、なんも知らないやつがいる。

かと思ったら、ある特定の分野だけ、やたら詳しいやつもいる。


これが、人生においての意識の積み重ねの結果。




今回のプレゼン発表会では、それをすごく考えさせられた。

常にいろんなものを意識して生活していきたいと思う。


マックのバリューセット、買ったことある??

おれは1度もないです。

いや、そもそも、なぜバリューセットなんてあるのか、昔からかなりの疑問でした。

なぜかって?

だってあれ、全然安くないじゃん。。

えっとー手元にクーポンさんがあるので参照。

メガテリヤキ+ポテトM+ドリンクM=630円

単品で買うと、

メガテリヤキ=330円

ポテトM   =220円

ドリンクM  =180円

合計     =730円

おっ、100円もお得じゃん!?

って思うからおかしい。

メガテリヤキ=330円

ハンバーガー=80円

ドリンクS   =100円

合計     =510円

これで十分。

マックで+140円してまでポテトMが食べたいなら、そりゃバリューセットにすりゃいいが。

こんなだから、おれはバリューセットなんて食べない。

じゃあなんでバリューセットがそんなに売れるのか?

ある本の見解によると、

「人は考えるのがキライだから」

だそうだ。

いちいち細かい値段を足し算するのはシンドイ。

何を食べるかを考えるのもメンドイ。

だから、「バリューセット」っていう、お得そうに見えるセットを頼む。

らしい。

衝撃とともにちょい納得。

おれはまぁ算数は得意なので、マックで注文時に、即座に合計値段を出せるけど、ちょっと算数が苦手であれば、後ろに人が並んでる圧迫感もあるし、計算メンドイしそれならバリューセットで!って話になるのかもしれない。

話が思いつくままになって、それるが、

思うに、マックは、この、後ろに人が並んでる圧迫感をうまく使ってる気がする。

値段計算を圧迫感が邪魔する。

何を食べるか悩むのを圧迫感があせらせる。

結果、バリューセットを頼む。

うーん、見事な戦略。

ただ、1つ言えるのは、バリューセット、ポテトとドリンクっていう、きっとマックで原価率の低い2トップが入ってるっていうワナがある。だからやつらはきっとSじゃなく、Mサイズなんだよ。

つまりバリューセットはマックが儲かる商品ってことです。

こう思うと、やっぱバリューセットは買えないw

いきなりですが、おれ、占い、キライです。

ってこれを言うと、特に女の子にリアルに嫌われかねないのであまり口外しませんが笑



じゃあなんでおれが占いが嫌いか?

その理由は、占いって、確率論と心理学でほとんど話が付くと考えるから。


例えば、朝のテレビの占いで、下記のように言ってたとする。

「乙女座の人のラッキーアイテムは赤い服。赤い服を着ればいいことがあります」


そこで、主婦のAさんは、その日、赤い服を着てスーパーにお買い物に行きました。

すると、お肉屋さんで、お肉を少しサービスしてもらえました。


やったー。占いが当たった!



・・・ってほんとに当たったのか?


では、お肉をサービスしてもらえる確率は?

5回に1回はサービスしてもらえるなら、何を着て行っても5回に1回はサービスしてもらえるわけだ。

で、たまたま今日がその日だっただけ。


とまぁ、これだけだと、あまり説得力ないので、もっと説得力のある話を。



そもそも、この占いの場合、「赤い服を着る→いいことがあります」という話。

じゃあ「いいこと」って何?


きっと、道端で100円を拾ってもいことだ。

気になってる人とばったり会えたらいいことだ。

買い物行ったらバーゲンやってたらいいことだ。

下手すりゃ、応援してる野球チームが勝っただけでもいいことだ。


そう、世の中、人が「いいこと」と認識できる事象は溢れてる。


で、その中のたった1つでも、その日に実現されれば、その占いは当たったことになる。


考えてみてくれ。

昨日1日、いいことは何一つなかった人がそんなにいるか?


と、ここで心理学が登場する。

今の「昨日1日、いいことは何一つなかった人がそんなにいるか?」

たぶん、「無かった」と反論する人は意外と多い。


じゃあ、もう1つ、お願いがある。

今日からの24時間、いいことがあるか無いかを意識して生活してほしい。

これをすれば、必ず、いいことが起こるから。


人は、意識してるかしてないかで、事象に対する認識、理解が変わってくる。


ふとしたいいことなんて、些細すぎて、意識しなければ、翌日には忘れ去られている。でも意識すれば、それは記憶に残る。


例えば、昨日、大学の2限の授業が15分早く終わったとしよう。

こんなこと、そのときは軽くラッキーと思っても、翌日にはきっと忘れてる。

でも、「いいことがあるか無いか」を意識していれば、これは確実に「いいこと」と判断され、記憶に残る。


で、この「いいことがあるか無いか」を意識させているのが占い。


だから、占いは当たったように感じる。それだけ。




と、こんなことを以前、1度だけ女の子に話したら、ガッツリ返ってきた反論が↓w

「でも、「今日、好きな人から告白される」って占いが当たった友達いるよ!」


結論から言うと、マグレだ。


と、もっと根拠を持った回答をしようw

「好きな人から告白される」

これが起こる確率は~そうだな、大学生なら2年に1回起こるとして、確率は730分の1。


つまり、なんだかんだで730人に1人は当たるわけ。


で、君の友達に占いを信じてる人が100人いるとする。

たぶん、占いで「今日、好きな人から告白される」って占ってる記事、1ヶ月に1つくらいは目にするだろう。

とすると、100人が1ヶ月に1回ずつ、「今日、好きな人から告白される」って占いに該当する日がある。


ということはだ、それが7ヶ月ちょい続けば、確率が1になるのはわかるだろうか?

確率1とは、それが確率的には100%起こるってこと。


だって、7ヶ月ちょいで、友達100人で合計、730回、その占いに該当する日があるってことじゃん?

なら、そのうち1回は当たる確率になるよね?


で、きっとその占いが当たった友達は、めっちゃ騒いで当たったことをしゃべりまくる。

だから、きっと君の耳にも届く。


で、結果、占いは当たったと思い込む。

で、また心理学が登場するが、その、奇跡に思える出来事は、人の意識の中で大きなウエートを占める。記憶に鮮明に残るのだ。


今回で言えば、「好きな人に告白される」って占い、729回は外れてるはずなのに、外れたときは、

「やっぱ当たるわけない」と記憶の隅に封印され、たった1回の当たりが、あたかも毎回起こってる事象のように言われる。


何なら、今度から自分で統計を取ってみてくれ。

そういう、ほんとに起こりそうにない占いが当たった日の数を。

実際は、理論上の数字と同じにしかならないから。



全部の占いは、ぶっちゃけ、確率論と心理学で片付くと、おれは思ってる。

血液型による性格診断なんて、その顕著な例だ。


もうめんどいから書かないが、そういう理由でおれは占いがキライ!



最近、これの必要性を非常に感じる。


おれ、今、ちょっとビジネス関係のサークルで、副代表を務め、イベント部門を統括している。


こういう、いわゆる学生団体での活動って、おれは1年生の末頃から始めたんだけど、その当時も当然、その頃に所属していた団体には、理念やらビジョンがあった。


でも、当時のおれにとって、理念っていうのは、ただ活動をするにおいて、見てくれをよくする程度のものでしかなかった。人に自分の活動を説明するときに、すごく見せるツール程度w

そもそも、おれが1年生の末に学生団体に所属し、活動し始めた動機は、ただ、当時の大学生活がグダグダで、その生活から脱却したかったから。


だから、別に理念とかにも正直、共感などしてなかった。ただ、なにかに一生懸命取り組みたくて、それで必死に、今あるものをこなしていた。




で、今、サークルを運営する側の立場にいる。サークルの方向性を決める立場にいる。


この立場に立つと、理念やビジョンの価値をものすごく感じる。

理念やビジョンの最大の役割は、「メンバーのベクトルの向きを揃えるため」


こんなこと、企業の社長さんたちが聞いたら、当たり前だろ!って突っ込まれるだろうがw



これがあると、特にサークルの今後の活動を運営側として考えるときに、意見の食い違いや考えの違いを、理念やビジョンに照らし合わせて、客観的に判断できるようになる。

ビジョンに向かうには、どの判断が正しいか?それを基準に考えればよいわけだ。


これは、サークル全体の運営側で活用されるにとどまらず、例えば、イベントを開催するのであれば、最上位にサークルの理念・ビジョンがあり、それに沿ったそのイベントの目的を始めに明確にメンバー内で共有しておけば、イベント自体の方向性がズレないし、サークルとしても一貫性を保った活動が出来る。


って、あまりうまく日本語で表現できてないのが残念だ。。。



とにかくまとめると、理念やビジョンの存在意義は

①メンバーのベクトルを揃える

②活動全体に一貫性を持たせる


この2つの役割があるのかなと。

いや、ほんと、重要だよ。これ。

ちょい前、友達が言ってた言葉。


「大学に入って、世界、広くなったよね。」


結構衝撃だった。


「お前、そんなにたくさんの人に出会った?たくさんの未知に遭遇した?」

みたいな。


というのも、これを発言した友達は、ずっとうちの大学内だけで人間関係を済ませていたやつ。

学内のとあるサークルに所属し、大学すぐそばでバイトし。

そいつは教員志望で、所属は、教育の先生になる専門の学科。


どこで、「広くなった」と感じたのか。かなりの疑問を感じ、思わず聞いた。



「何でそう思うの?」



帰ってきた答え

「だって、大学って、日本中からいろんな人間が集まってるんだよ。育った地域によって、人は全然違うじゃん。そんな考え方もあるんだーって思うこと、多くない?」


まぁこんな感じの答えが返ってきた。



これについて話すにはまず、「世界が広くなった」とする定義から定める必要がありそうだ。


人はどのような体験をすれば、世界が広くなったと感じるのか。


たぶんそれは、「未知」に触れたとき。ではないか。

未知に触れる=新しい価値観に触れる。


これが、世界が広まったと人が考える要因だと思う。



その意味で、「そんな考え方もあるんだーって思うこと、多くない?」

の一言は、まさにそれを的確に表現していて、つまり、確かに、この友達は、大学に入って世界が広くなったと言っていいだろう。




だが不思議なことに、おれは、大学に入って世界は狭くなったと感じていた。

それもあって、おれは、大学を出て(別に休学したとかではないが汗)結構積極的に活動したつもりだ。


その結果、年齢、性別、社会的地位、年収、人生経験、価値観、様々違う人間と会うことができ、結果、世界が広くなったと感じた。



では、なぜ、おれと、おれの友達とでは、その差、つまり、一方は大学で世界が広まったと感じ、もう一方は、狭くなったと感じたのか?



それはきっと、大学に入るまでの、人間関係の差だろう。

これは単純に、おれが高校時代、人間関係が広くて、おれの友達が狭かったというわけではない。(当然、これも1つの要因としては考えられるが。)


問題は、高校までに自分の周りにいた人間の価値観と、大学に入ってからの人間の価値観の相違性だ。



具体的に話すと、

おれは、中学高校と、そこそこの進学校に属していた。で、大学も、準一流くらいの大学。つまり、高校のときの自分の周りの人間と、似たような環境で育った人間が、今の大学には多いと言える。


むしろ、自分は教員養成の学科に入学したため、そこの「教育(先生になる)」の部分の価値観が、どの生徒も似ているため、むしろ世界が狭まったと感じたのだ。


全体的な価値観は、高校のときの友達と同じ振れ幅で、教育に関しては価値観の幅が狭まった。結果、全体として狭まった。

ということ。



ではおれの友達はどうか?


やつは、普通の高校出身。むしろ、うちの大学に入る人間は、成績面ではかなりの上位にランクされる高校らしい。

しかも、田んぼの真ん中で育ったそうだ。(別に田舎が悪いと言ってるわけではない。誤解されたらイヤなので。)



ここに、おれとの差がある。

うちの大学に入学している人間においては、進学校上がりが多数派で、おれの友達みたいなのは少数派。

そうすると、大学に入ると、今までとはちょっと違う人間に遭遇する。

結果、教育という価値観において、多少狭まろうが、それ以上に、その他の部分で世界が広くなったと感じる。

プラス、田舎な分、考え方がそもそも似た人間が多かった可能性も、おれは高いと思う。

(もし、自分の偏見であれば、大変申し訳ない。)



だから、この発言が生まれた、そう思った。


人間って不思議だわ。