台南と八田與一さんと鄭成功 | けろみんのブログ

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さらに、日月潭からバスで台南を目指します。
キリンバスで。北回帰線を超えて熱帯地方に入ります。農作物はマンゴー、パイナップルなどになります。
道中、嘉南平野にさしかかり、昨日もお話にあった八田與一の話になりました。ここは、広々とした平野は灌漑設備が不十分だった。

現在の豊かな農作物の様子

1918年から台湾で働き出した八田與一はここに、みなが無理と言った山脈にトンネルを掘りダムを作り全然違う地域から水を引いた。設計に3年、工事に10年間かかった。細く張り巡らせた水路の長さは、万里の長城の8倍にもなるという。これにより嘉南平野の収穫量は飛躍した。
というわけで、八田與一は台湾でとても尊敬されている。他にも他の地域では、工事で亡くなった人の慰霊碑に、台湾人を入れないという、差別があったが、八田はそれをしないでなくなった順に慰霊碑に刻んだ。こんなエピソードのおかげでとても尊敬されている。
八田與一はフィリピンに向かう船に乗っていたところアメリカ軍の攻撃により沈没し亡くなった。奥さんは肩身の手帳をお墓とした。そして、八田與一さんのお墓参りに行ったきり奥さんは、帰ってこなかった。
八田與一さんは生前烏山頭ダムを「ここが俺の風呂だ〜」と言っていたそうで、奥さんはそこに身を投げて死んでしまったそうです😭なんでー。


そして、台南にはいりました。台南は昔は首都。高雄のように戦争の時空襲にあっていないので昔の街並みが残り道が細いです。

南国なのでガジュマルが元気です。

可愛い色のお寺です。

この方が鄭成功。東シナ海〜対馬海流などの辺り一体にいた明時代の海賊の1人が鄭成功の父で、彼は官軍に負けて長崎の平戸に逃れそこで田川まつという松浦藩士の娘を紹介された。浜辺でまつが、1624年はまぐりをたべたらお腹痛くなり平戸の浜でそのまま生まれたのが鄭成功。その頃は「福松」という名前だった。7歳で父と明に渡った。身長が176センチありとてもハンサムだったとか。

なぜ台南に祀られているか?
鄭成功は、明の皇帝に可愛がられ養子になった。そして、明のために清(満州)と戦ったが負けてしまった。呼び寄せた母まつは、その時城から脱出できず自害。(なんでー😭)
鄭成功は25000人の兵を連れ、台湾にやってきた。

やはり印を運んでるのかな〜
お寺用のお線香はこのように蚊取り線香のようになってます。
こちらは印を入れるものを吊り下げてると言ってた気がする。

台北はスペイン領、台南はオランダ領だったが、1623年からは全てオランダ領になった。そこへ1661年38歳の鄭成功がやってきてオランダ占領時代は終わった。
鄭成功のお母さん(田川まつ)の祀られた廟。可愛らしい模様で飾られている。

鄭成功が率いた25000人という大軍の中には、医者、先生、その大工などの工人などあらゆるプロフェッショナルがいた。そのおかげで台南はガラリと様子が変わり、台湾の歴史が変わった。
蒋介石が、中国から台湾にやってきた時八田與一の銅像を隠したという。
しかし満州(清)からしたら敵国人の鄭成功の史跡には手を出すなと部下に命じたという。それくらいの尊敬される人間だった。
とはいえ台湾に来てたった1年、39歳でなくなりここに祀られている。回廊には彼の部下が祀られている。

砲台
台湾の狛犬は、「あうん」になっているときもあるが、おおくはオスメス。子供のいる狛犬がメス。

















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