私のターニングポイント |   SHOWBOAT~舞台船~

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  役者として舞台を中心に活動している明石智水の仕事の事だったり
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先日千秋楽を終えた『ターニングポイント』に関連し、パンフレットのコメ欄では書けなかった私のターニングポイント(転機)について。



私は小学校に入る少し前にバレエを始め、その後演劇も始めて英国に留学しますが、今も舞台に立っているのはいくつかの転機があってのことです。


私がバレエを習っていて、一番にインパクトを受けたのは、榊原郁恵さん主演のピーター・パンでした。

タイガー・リリーがとにかくカッコよくて「私もタイガー・リリーになりたい!」と思ったのが、1番。

ただ、この頃は、舞台でタイガー・リリーを演りたいのではなく、本当にタイガー・リリーになりたかったので(まだ小1とかでした)、目指すのは舞台ではなく、タイガー・リリーそのものでした。

舞台に出る人になるという考えまでは及ばなかったんですよね。

ダンスを頑張るキッカケになりました。


実は私は、小学校に入った頃とても内気で、人前で話をすることさえ可能な限り避けたいと思っているような子どもでした。

小学校の朝の会で何か話さなくてはいけない場面で、泣き出して話せなかったことも。

バレエの発表会なんかでは人前に立つわけですが、喋らなくて良いと言うのが、ダンスに惹かれた一番の理由です。

この内気だった頃の「喋らなくて良い方が向いてる」と言うのは、大人になってからセリフのない芝居に戸惑わないという利点を生んでくれました。


演劇との出会いは、小学3年生の頃。

クラブ活動が始まった時のことです。

同じクラスの友達に誘われて演劇クラブに入りましたが、その当時「演劇」という言葉の意味も良くわかっていなくて、何をするクラブなのかも分からず入りました(笑)

何をしたのかも良く覚えてません。


それで中学でも演劇部に入ってみるのですが、すぐに辞めます(笑)

実はそこでは初めての発表の時、何故か主役の代役に選ばれてしまいます。

代役だったので実際に本番で主役は演じませんでしたし、本来の脇役の方でいきなり道具を持ち忘れて出ると言う失態をかましました。

が、話すのが苦手だったのに、書いてあるセリフで尚且つ自分ではない人としてその場にいるのなら、案外人前でも平気、という経験をして不思議な感覚を味わいました。

これは一つのターニングポイントだったと言えます。

辞めたのは、同じクラスで一緒に演劇部に入った子とケンカして、その子を中心にみんなにシカトされるという状態になり(もしかしたら、いきなり主役の代役抜擢の嫉妬もあったのかな?)、「ウザッ」と思ったから。

その後は、好きな男の子の部活動を見学しやすかった美術部に入って、「外でスケッチします」と言って、好きな子のいるサッカー部ばかり見てました。

演劇からは離れますが、舞台に立った時の楽しさは覚えていたため、中3の頃親に内緒で日本テレビ音楽学院という養成所に応募します。


書類は通ったのですが、親を説得しきれなかったこととオーディションが学校行事と重なった為辞退。

そこで作戦を練り直して数カ月後に再度チャレンジ。

今度は親を説得しオーディションに行くわけですが、この時の親との約束は「特待生で受からなければこの世界は諦める」という、なかなか高ハードルなものでした。

ちなみに、日本テレビ音楽学院という養成所を選んだのは、俳優科や歌唱科の他にダンス科があったこと、ダンスの講師が著名な振付家である土居甫先生だったこと、どの科に入っても演技、歌、ダンスの全てを学べるという環境だったからです。

実は歌も好きで、小学生の頃担任の先生に「智水ちゃんは歌手になったら良い」と言われたのですが、中学に入った頃、声変わりでかなり声が変わり、自分の声がコンプレックスになりました。

女性としては、しっかり自覚できるレベルで声が低くなりました。


余談ですが、『ターニングポイント』の楽屋で川原美咲ちゃんがスマホで聞いていた日本語の『美女と野獣(ポット夫人の歌。バージョン不明)』を「明石さんが歌ってるみたい!」と言って、他の若い子達もそれに賛同していて驚きました。

そんなふうに聞こえているのかと。

大人になってしばらくしてから、先輩の女優さんに声を誉められた事があり。

声変わり後の声コンプレックスは少し薄まりました。


話は戻り中3の卒業直後、オーディションに行き、面接で「演技の先生たちがとても良い点を付けてます。俳優科なら特待生で取ります」と言われ、俳優科の特待生として合格します。

何とか約束クリア。

ここも一つのターニングポイントですね。



俳優科で入所後、2年目からは複合科(俳優科と歌唱科を兼ね、受けられるダンスレッスンが増える)に移行しました。


当時ダンスは初級、上級共にメインのレッスンを土居甫先生が受け持っており、途中から「上級の方も出なさい」と先生に言われた時は本当に嬉しかった。

俳優科の特待生なのに、ダンス中心にレッスンを受けて、俳優科のレッスンをサボって怒られたりしていました。

ここでは発表会のようなものがあったのですが、土居先生が振付の作品が3つあり、その内初級の子が多く出る作品と、初級と上級混合の作品2作品に出ることになったのですが、ここでさらなるターニングポイントが訪れます。

初級と上級混合の作品において、演技が必要な役から上級の先輩が突如外され


「トモ、お前がやりなさい」


と言われたんです。

芝居だけでなく、パートが変わるためダンスも上級よりに移動です。

稽古の間、緊張と出来なさで毎日肉体的にも精神的にも疲労困憊。。

何か食べたら吐いちゃうから食べられない、水さえ満足に喉を通らない。

そんな時に土居先生に


「キツイだろ?でも、これを乗り越えたらそれが自分の自信になる。あの時出来たんだからと思えるから頑張れ!」


と叱咤激励していただき、本番で踊り終わった後先生に


「良くやったな」


と頭をポンポンしてもらった事は、その後英国に行ってから厳しい先生にあたってもへこたれない私を作る大切な要素になりました。

本当の意味でエンタメの世界に身を投じる覚悟をする為のターニングポイントは、土居先生との出会いでした。


土居先生にはもう一つ大きな思い出があります。

怪我をしてロンドンから戻ってきた後、それでも舞台を続けるのかどうか悩んで、日本テレビ音楽学院を訪ねたことがあります。

土居先生のレッスンをスタジオの外から見て、レッスンが終わった後声を掛けようとしたのですが、黙って私を見る先生の目が


「泣き言なら聞かないぞ」


と言っていました。

結局何も言えませんでしたが、言葉はなくともその目が、私が舞台を諦めることを止めてくれました。

ロンドン行きを決める前、先生には話をしていて、こう言われたことがあります。


「お前には女が捨てられるか?」


これは先生の名誉のために補足しますが、セクハラじゃありませんし女性蔑視でもありません。

甘えを捨てられるかという意味です。

女であることが甘えるための方便として使われることも少なくなかった時代です。

その時にYESと答えた私が、泣き言を言いに来て聞いてくれるわけ無いですよね。

お前、覚悟して海外にまで行ったんだろ?と先生は言いたかったんだと思います。


私が思いの外土居先生の影響を強く受けていると自覚したのはこの後です。

諦めるのを止めて出た舞台で、先輩の俳優さんに言われました。


「お前元バーズだろ?すぐ分かるよ。踊りが土居だもん。」


ロンドンにまで行って踊りを習ってきて不思議ですが、そもそも厳しい土居イズムに育てられたからあっちの学校にも受かったんだと、その時に気付きました。


土居先生と言うのは、生徒仲間からするとお父さんみたいな人で、先生の最後の誕生会、お葬式の後に元生徒と先生のご家族でやったのですが、養成所時代が被っていて参加した数人で、全く同じ経験をしていたことに驚きました。

先生が亡くなったと知っても、実感がないというか「悲しい」とか「淋しい」という、意識できる感情は浮かばないのに、ただただ涙が溢れて止まらなくなって困ったことが何度もある。

これが、本当に大切な人を亡くした時の感覚なのか、と。



ロンドンでの経験はとてつもなく大きかったのですが、その前後で私を支えてくれたのは土居先生の存在でした。

厳しいと書きましたが、イタズラ好きでもあって、新参者だけに一番早くレッスン場に行っていた私に


「背中に乗って」


と、子供の頃親に頼まれたような背中ふみふみマッサージを求められ、やってる内に先輩達が来て


「先生、何やってるんですか?」


と聞くと


「何だよ。せっかくトモと二人っきりだったのに」


と真顔で答え、オロオロする私を見てニヤリと笑う。

感覚としてはドッキリ仕掛けられた感じです。

嫌味でも、いやらしさも無く、テッテレー!という感じ。


あの頃があったから、私は英国で一人でも、厳しい状況にぶつかっても耐えられたし、今でも舞台に足っています。

そうそう、先生のレッスンでは振付の途中に空白を作って2小節程度を自分で振付て、それぞれソロで繋いでいく、なんて事もありました。

ロンドンでのオーディションで、振りが分からなくなっても即興で踊れたのはこの経験も大きいと思います。

しかも、そのおかげで受かってますし、私のターニングポイントには常に先生の存在がありました。

最もエンタメというものを考えていた身近な存在が、先生だったと思います。


有名かどうかなどで人を選ぶことがなく、自分が好きかどうか、自分が面白いと思うかどうかで物事を判断する先生でした。

だからこそ、先生にお世話になった有名人が何人も来てしまうような葬儀でさえ、弔問客の有名無名を区別するVIP席は作られなかった。


英国に行ったことも、そこでの出来事にも小さなターニングポイントは色々あるのですが、大きいのは土居先生一択です。

そもそも、人生なんて何においても自分の選択であって、小さな選択が後に大きな分岐点であったなんてことは珍しくありません。

そういう意味では、人生はターニングポイントの連続ではあると思うのですが、後で心に残っているのは、そこにいた誰かの記憶なのではないかと思います。

『縁』というやつでしょうか?

これからも大切にしたいと思います。