以前のブログ更新から、なかなか投稿する気が起きなくてしばらく放置してしまいました。



この記事に、皆さんからあたたかいコメントありがとうございした。ほんとにほんとに感謝しています。

ひとつひとつ、丁寧に何度も読ませていただきました。

あたたかい言葉に、涙がポロリ悲しいしてしまうこともありました。

本当なら、それぞれにお返事お返ししたかったのですが、できなかったこと、ご理解下さい。


ここからは、かなり 気分落ち込み右下矢印右下矢印な内容になります。自転車ブログのはずですが、一切チャリ関係出てこないので、ご容赦下さいませビックリマーク





あれから、夫は私とは一切口を聞かず、私の作った食事も食べず、私を避けています。

それまでやっていた、ゴミ捨て、夕食後の食器洗いの二つの家事も放棄。

帰宅は4日に一度 ぐらい。いつの間にか居て、いつの間にか居なくなる。そんな感じ。

子どもたちには話しかけますが、長女はガン無視。お年頃の子には許せないらしく、無視を決め込んでいます。次女は話しかけられたら答えるけどってスタンス。でも、「なんでパパ謝らないんだろうね」とはじめの頃は言っていました。


そんな生活の中、私は心をすり減らして父の介護のため実家との往復をしていましたが、父の呼吸状態が悪いため、救急車を呼んで入院するので直ぐに来て手伝って、と母から連絡がきて。それが6月入ってすぐでした。

入院先は、まだコロナの影響で週1しかお見舞いができません。その日、父を見て、2週目にお見舞いをしたら、19日に病院から状態が悪化しているから、直ぐにこれますか?と電話がきて、慌てて駆けつけました。

人工呼吸器に繋がれ、シュコー、シュコー、って生を繋いでいる父がいました。

「お父さん、辛いよね。辛い目にあわせてごめん。でも、まだ生きててほしいよ」って涙ながらに話しかけて、後ろ髪を引かれる思いでその日は帰りました。

次の日また病院から仕事中に連絡がきて、急いで駆けつけると、すでに息を引き取ったあとでした。


それからは、父を連れて帰り葬儀の手配やら何やらやって、 このご時世だし、家族葬にしよう、と決めたり。火葬の日付や、親戚に知らせなきゃ、とか。

数日前に、市役所に色んな手続き諸々をして、まだやることはたくさんありますが、ひと段落した、というところです。


父は職人でした。若い頃一昔前の 丁稚奉公みたいな感じから父の事業を継ぎ自営業をして、一切家族をお金に困らせることはないぐらいに働いて、養ってくれました。頑固親父でしたが、 底抜けに明るく、友達が多くて、気っ風のいい周りにほんとに好かれる人でした。

その頑固さ故に、母とたまにケンカすることもあるけれど、夫婦仲はよくて、事務をする母と仲良く過ごしていたように思えます。

俺は東大(灯台。実家のすぐ近くに灯台があるのでそこを登ったことをふざけてこう言っていた)を出たんだぞ!、俺が死んだらバンザーイってしていいから(笑顔でいろよという意味)と、お酒を飲むといつも冗談を言っていたのを思い出します。

私が嫁に来てからは、私の家の草むしりによくきてくれました。

もっと父とやりたいこともありました。

一緒に二人きりで居酒屋へ行ってみたかった。

出かけて、釣りや山に山菜とりしてみたかった。

でも、もう叶いません。


父の子として生まれたことを心から誇りに思います。

今まで本当にありがとう。