今日までゆっくり寝て過ごしてます〜。
(携帯の事で電気屋さんには行かないといけない)
木曜日に家の中で携帯を落としてしまって、
上の所、カメラ付近辺りヒビが入ってしまいました〜カバーは付けてたんですけど、、
7月には機変の時期になってたので、
ショップには行かないと行けなかったのですが、その前にガビンでした。
29歳くらいのときに、
雇用保険の職業訓練校のパソコン教室で、
名前順で隣の席になったYちゃん。
以降、15年以上携帯業界でずっと働いてて、
その度に私もお世話になっていて、
今回もLINEで個人的に相談が出来て、
(あまりショップでは教えられない裏技的な事も教えてくれたりするので)
本当に助かっています〜(ブログは知らない)
ちょっと手続きは面倒ではあるけど、
かえってラッキーだなという事もあるので、
頑張って済ませてきます。
今朝も明け方までゆっくり寝れてて、
起きると咳とともに黄色痰でるけど(汚)
体調はキツくないので、
昨日も撮り溜めてたドラマとか見ながら、
ずっとストレッチして、、
(やっぱり背中とか脇腹はバキバキなってた)
あと、ヨガのテキストとか問診表を
少し作りなおしたり、
疲れない範囲でちょこっと出来ました。
bssも続きをやりました〜初級③へ。
初級③祈り
〜調和と一致の祈り〜
見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。(マタイによる福音書)
これは最後の最後に言い残した言葉です。
その後天に上がっていった。
今回はAmen(アーメン)
その偉大なる能力について
まことに、あなたがたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名においてあつまるところには、わたしもその中にいるからです。(マタイによる福音書)
ひとりの祈りも重要ですが、
ここでは二人以上の人が、
何かに対して心をひとつにして祈る祈りは、非常に強力という事をお伝えします。
これはマタイ伝にしか書かれていませんが重要なポイント。
それをかなえてくださいます
英語ではここはshallと書かれていて、
「必ず」とあるとても強力な祈り。
神の恵は、求めるよりも、受け取っていく事の方が重要で受け取る事の方が難しい。
自分に無いものを、
求めて求めていく人が多いけれども、
既に、与えられているものに目が留まって、それを受け取っていけるかがポイント。
人間は頭の方に意識があり、頭は、最初からは神の言葉に対する価値は見えない、
分からないので否定しがちです。
頭が理解するところから始まるのは、
学問の世界。
信仰の世界/神の世界/霊の世界/は、
信頼して行動する事から始まり、
その後に理解が伴ってくる。
最初は頭では理解出来てないのだが、
神は、奇跡と不思議と証の体験を通して、我々にそれを見せてくれる。
体験が先で理解が後に来る。
イエスキリストは、
聖書の中でこういう言葉を使っている。
(マタイ伝)
聖なるものを犬にやるな。真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれを足で踏み付け、向き直ってあなたに噛みついてくる。
これは、偽の教師の特長ですが、
聖書に書いてある事は宝であり真珠であり、価値のあるものですが、
間違った(偽の)教師・教会などは、
それに対して敵意を現してくる。
最初は、我々もその価値は分からなかったと思いますが、彼らは、分からないというレベルでは無くて、
同じ聖書を用いながら神の言葉を変えたり、曲げていく人々が出てくる。
これは、聖書にもある通り、
イエスの時代から予言されていた事です。
我々の頭というのは、最初は、霊の知識、霊の言葉には全く無知であった。
常識、知識しか教育されてませんので。
それが普通なのでそれでいいのですが、
聖なる物/神聖なもの価値が見えてこない。
他の宗教であっても、
聖書とはちがう事をやっていたとしても、
信仰心というものはそれで養われていて、
聖なる物に対する価値観を養っている点については重要であるし、
真の神聖なる事が見えてきた時に、
その信仰心はそのまま引き継がれていく。
パウロもイエスキリストを迫害していた人であるけれども、一瞬にして真の事が見えてきたとき(見せられたとき)、それまでの信仰心はそのまま生きているのです。
犬と豚、動物を用いて表していますが、
動物には真珠の価値が分からないように、
その価値は最初からは見えて無い。
少しずつそこを養っていくのが重要で、
神の恵が見えないが故に受け取らない。
聖なるものを見分ける事は、わきまえる、とか、礼儀に通じていくのですが、
人間の本質は霊の存在であるので、本来、神聖なものを見分ける能力を本質的に持っているのです。
昔の日本は和室の中に床の間という神聖な場所を作っておいて、
子供たちも「ここは何か違うな」という空間の認識能力を磨いていた。
見分けがつく=わきまえる
という能力が自然と育っていたのです。
神聖なる恐れを肌で感じて、見分けるという教育は大切で、それが、わきまえるという事になり、
その上に知識を付けていくのが大事で、
これなくして、ただ、知識だけ身に付けていくのは注意すべき事である。
聖書の言葉によって、頭が聖書的になっていくと、神の恵の価値が見えてくる。
見えないものが見えてくる。
教会に与えられている真珠が沢山あり、
聖書の中に宝は沢山あります。
その中のひとつに「アーメン」という言葉です。
最初はそんなものの、どこに価値があるのか?って感じですけど、経験体験も伴ってこの価値が見えてくると思います。
逆にいうと、その価値を人間よりよく知っているのはサタン(日本人に馴染みの言葉だと悪霊ですかね)
だから、奪いにくる。2000年のうちに教会から奪われていったものは沢山あります。
その恵の一つ一つが麗しき真珠でありますが、それは、全て神の言葉/聖書の言葉に現わされている。
偽りの教師、世俗的な組織に忠実な教会などは、真珠を奪われているという事もあるし、更に、否定して、足で踏み付けて噛みついてくる。
教会から恵を奪うために価値の無いものと入れ替えられているので、結果、恵が無いのです。
既に与えられている神の恵の価値を
サタンは最初から知っていて、
受け取る前に恵を奪おうとする。
我々は、段々と、知識と経験体験が積み重なって、恵が見えてくるようになり、それを受け取れるようになってくる。
〜聖書の中の重要な真珠のひとつ〜
2人以上ものが心を合わせて祈る
これがいかに強力であるか。
という事を経験を通して更に学んでいく
必要があります。
マタイによる福音書
まことにあなたがたに告げます。
もし あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父は、それを叶えてくださいます。二人でも三人でもわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいるからです。
この事を可能とする為に知らないといけない言葉が「アーメン」という言葉です。
アーメン//まことに、しかり、という意味がありますが、
2人以上で祈ったあとに、
頭も心も声も一つにして祈ったあとに、
最後に「アーメン」と言う。
単純な事ですが、この価値が見えてくる事は、我々の人生を豊かにする重要なものです。
世俗的な教会はこの事には全く否定的です。
また、祈りが通じる特別な人がいると教えられていたりするのですが、聖書ではそんな事は一つも書かれていません。(いかにここでも真珠を奪われていってるか、、)
旧約聖書には、一人で千人、二人で万人を破るとありますが、
数学的には二人は2,000人となりますが、
信仰の世界では、二人は万人を破っていくとある。
一人の祈りもとても重要ですが、
この二人以上で心を一つにして祈る祈りは、わたしの(牧師)経験からしても、非常に強力な祈りです。
一人で祈るときにはアーメンは必要ありません。二人以上のときに用いる。
調和と一致の祈り。
これは聖書に基づいた信仰の祈りで、
このときそこにはイエスも臨在している。
調和と一致の祈りをする時に必要な事は、
⚪︎自分以外にも異言で祈れる人を見つける
⚪︎その人が自分の祈りを同意してくれる。
⚪︎そして、祈った事はそうなるんだと、
祈った人たちで信仰を保ち続ける。
そんな事は無いよとなると、祈りは崩れてしまいますから、保ち続ける。
牧師と祈ると祈りが応えられるという事はあるかもしれませんが、それは、経験の違いで、信仰の度合いが違う、信仰を保つのが強いだけで、何も牧師とではなくても、家族でも、友人でも一緒に祈るといいのです。
アーメン//調和と一致の祈りは
多大なる神の恵であり、天を動かすほどの聖なる能力、天来の真珠である。
あまり、サタンとか書かないように省いてるのですが(恐怖心を煽ってるように思われたく無いので)
今やリアルな政治だったり世に影響力のある人や組織の真実は恐ろしい世界だな〜というのも、見えてきてる部分あるかなと思って、そこまで現実離れしてる感も無いかなと思って、少し触れました。
でも、基本、都市伝説的にさらっと読み流して頂けたらさいわいです🌈
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