日曜日、父の日、父と2人でうなぎを食べに行けました。




開店は10:30〜で、

父には10:00には着くように行くね。


と伝えてましたが、


土曜日でも10:00に着いても

すでに6組待ちだった。と聞いて、


9:40には到着したけれど、

すでに予約で満席になっていて、


11:00過ぎまで待つことに。


父は待つ事が嫌いで外食が嫌いだったという、子供の頃の記憶があるけど、、


最近そんな事あまり聞かない。そういえば。


「待てばいいのよ〜」って言ってくれたり、

「どこでもいいよ」と言ってくれる。


子ども達には合わせてくれてるんだろな、、

本当は家で気ままにしてる方が

好きなんだと思うけど。と感じる。


1時間半以上待ちそうなので、

30分くらい少し周辺を歩きました。

よいお天気でした。(遠くが父)



うなぎ屋さんから霧島神宮の鳥居までは

歩いて10分くらい。緑と赤が綺麗。


でも、本殿までは、階段が沢山あるので、

(車で駐車場まで行けばそこはショートカットされるから、あまり通らない階段)


上には行かずに周辺を歩きました。


実家の猫が体調悪くなってから、

2ヶ月くらい散歩行ってないみたいで、

すり足気味に歩く父が気になります。


前は朝5,000歩、夕5,000歩程歩いてたけど、

そんなに沢山歩かなくていいから、


あまり無理ない程度で、

歩くのは続けたらいいよね。

と話し出来て良かった。



床の間の隣のよいお席に通されました♪



かわいい箸袋



待った甲斐ありました〜肝吸いは鰹節香る。


お腹いっぱいで

少しご飯は残してしまいました。


帰り着く頃は、、

猫の事が心配になってたみたい。


これまで父と外食するのは、

祝い事か通院の帰りくらいでしたが、


気分転換のためにも

時間を一緒に過ごすためにも

外食で連れ出そうと思います。





bss初級②神のみちびき
〜感情の嵐〜


前回からの流れで、

神の導きはいったいどこにあるのか、
どのように知る事が出来るのか、
それに従っていくにはどうしたらいいのか


基本的で大切な事なので、

ここでお伝えできれば、


bssは礼拝とは違って

学ぶ方向が強いかと思います。


礼拝は神を礼拝する

こちらは聖書を学ぶ目的になってきます。




今回は、人間の感情について。


感情と信仰を混同したり、
取り違えている方が多いと思うので、


例えば、
感情的に喜びがヒートアップしてきたときに「恵まれた」と人は思いやすい。


確かに、恵まれて、喜びがあるのは、それでいい、悪いことではありませんけれど、


逆に、落ち込んでいるときに、逆境にいるとに「自分は恵まれていない」というようになったり。


信仰と感情がミックスされて使われがちです。


感情と信仰は全く別で区別する必要があるのですが、


一般的にみたとき、クリスチャンはすごく感情的な人が多いように思います。


感情的なものを求めて、それを神の恵や喜びと、解釈している人が多いのだと思います。



今回、感情というものは何なのかを見ていこうと思います。

 

この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。(ロマ書/新共同訳聖書)

 


元々、ギリシア語でかかれてるものを、日本語に翻訳したとき、この「霊」という言葉は、日本では定義が曖昧となるので、解釈が難しいと思います。



⚪︎証ししてくれる=はらにシグナルを送る


⚪︎この霊こそは=神=聖霊


⚪︎わたしたちの霊と一緒になって=わたしたちの霊の部分=はら





聖霊は私たちの意志や考えを全く束縛するものではなく、


私たちの考える事、思う事、行動する事を良い方向にと導き助けています。



前回、思い煩うのをどうすれば辞められるかをやりました。


どんなに熱心に祈っても、思い煩いがブロックとなり、祈りの応えが来ていても、受け損なっている事が多い。



イエスは起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。

イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」マルコによる福音書



イエスは船の後ろで休んでいた。

弟子たちは船を操作していたが、
嵐が来て、船が沈みかかってしまいそうな状況。


弟子達は元々漁師で船の扱いはプロであった。その船の扱いのプロの弟子たちが「もうダメだ」という所まできた。


弟子たちのあらゆる知識や技術をもってしても、もう、この船はコントロール出来ない、ダメだという状況。


プロであるが故に危険をよく知っている。



常識的にみると、弟子たちの考え行動の方が一般的で、船の後ろで休んでいるイエスの方が普通ではない。
 

最後にイエスの所に弟子たちが行くと、

「黙れ。静まれ。」と湖に言った。






この嵐を、我々の内部に起きる「感情の嵐」に置き換えると、


我々は感情というものを、信仰と勘違いしている事が多いのですが、


実は、感情が信仰を妨げている事が多い。


この聖書の場面はマイナスの感情でしたが、プラスの感情であっても、



その感情によって「私は恵まれていない」「私は恵まれている」と、感情と信仰をミックスして受け取りがち。


感動と信仰を混同してしまっているのですが、それは知らないと、当然の事かもしれません。



しかり、神から恵まれているという事を、このように感情から解釈してしまうと、
取り違えてしまう。


感情が良い、悪い、と言ってるのではなくて、それと信仰とは別であると区別する。





感情の領域はこの外側の肉体とかあたまの領域で起こる事であって、


神が触れる領域は「はら」の領域であります。



自分の感情と、神の導きとは関係なく、
それは自分の感覚。




感情の特徴というのは、

エレベーターのように安定していない。


例えば、

今日は恵まれたと思っても、
次の日には恵まれてない。となったり。


その不安定さは単なる感情であって、
信仰とは別なんだと認知する。




信仰と感情の違い


感情

・上下移動

・揺らぐ

・周囲のことば



信仰

・水平移動

・確信する

・キリストのことば





この場面での、
弟子たちは感情/イエスは信仰を表しています。



自分に吹き荒れる感情の嵐を沈めて、
「向こう岸にわたる」とイエスの言葉が
そうあるのなら、もうそれはすでに渡っているのと一緒だと確信する。あと成るのは時間の問題。





逆に何も感じていないから、私は恵まれていない、と思うのも間違った考え方です。


例え何も感じていなくても、

聖書に「あなたは恵まれている」と書いてあるのであれば恵まれいる。と言うことです。


信仰とは、
感覚や感情で感じるものとは違う。


その根拠は聖書の言葉があるだけで、
とてもシンプルなものです。


例えば、

「人から恵まれた人ですね〜」と言われたとき、

「そうなんです。私は恵まれてます。」と

聖書の言葉を背景・真実として、そう言う事ができる。それが信仰である。


信仰を育てるには、感じる感じないの領域を抜け出していく必要があります。


また感情は自分の感情として認める。

区別していく。



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