昨日5月21日火曜日は、

いいお天気の中で古民家ヨガ行えました。


良い風が入ってきて、

まだ、エアコン無しでも

湿度も少なく、ちょうどいい気温


よく見ると梅が付いてました。



そして、いつもこのBGMを使ってます。


緑を見ながら、水とクリスタルボールの音を聞いてるだけで整う〜キラキラという感じです🌿


意識して脱力して、

目を閉じて深い呼吸を繰り返していると、

もう別世界気分です🌈

(映画館で感じる日常と切り離されたような)


そしてその中でも、

筋力アップのポーズなども取り入れたり、

動きながらの瞑想状態になれるのは

ヨガの1番の特徴・醍醐味かなと思います。



ヨガ後のいっぷく写真だけで参考になってませんが〜


・コブラのポーズ(腕、背筋)

・ダウンドッグ/アップドッグ(腕、体幹)

・立木のポーズ(下肢、体幹)


などは割と筋力も使うポーズ。(腕立てよりは楽)


他の優しいポーズも丹田呼吸を繰り返して行うのでインナーマッスルを使います。(ロングブレスダイエットも昔流行りましたよね〜あれを力を抜いて優しくゆっくりやってるような感覚)


ヨガの報告は早々に切り上げて


5月17日の礼拝の録音より/


週末3回、礼拝があって(加治木と鹿児島市内と教会があって)1週間で3回分の音声も上がります。

➕日曜日はzoomでbss(礼拝とは別の聖書を読めるようになる為の講義的なもの)計4回分の音声が上がる。


これまでbssをメインに聞いてて、礼拝の録音の音声は(実際行くし)あまり聞いて無かったのですが、今年になって聞き直すようになって、また、違う面白さがあります💡


bssは聞く側の登録が必要ですが、礼拝の音声については牧師のブログに音声のリンクも貼られてて、登録無しで聞けます。とっても開かれてるなと思います。



この礼拝の回は「へ〜」という面白い内容と

前日、夫と喧嘩(喧嘩にはなってないけど、腹立ってしまった)した私には、とっても、入ってきた内容でしたのでチュー





モーセは120歳まで生きた。

その後の後継者はヤシュア。





我々は神の名をイエスと言いますが、ヘブライ語では「イエシュア」と発音する。


この、イエシュア、イエス、ですが、

これは日本で言うところの、

太郎や次郎のように、
よく付けられたような名前。


イエスと言う名前の人は沢山いるので、
区別するため、

ナザレ(出身地)のイエスとか、
イエスキリスト(キリストは称号)
と呼んだ。




モーセの後継者は、元々、
ヤシュアという名前ではなく、

ホシェアという名からヤシュアに変えた。


当時(旧約聖書の時代)神の名として
呼ばれていた「ヤハウェ」とくっつけて、
ヤシュアと改名した。


元々の名「ホシェア」は救いという意味で、それに神の名「ヤハウェ」を合わせて、
「ヤシュア」(神の救いという意味の名を後継者につけた)



ハレルヤも、ヤ(神)をハレル(讃美する)という意味。



旧約聖書に出てくる神の名はヤハウェ(日本ではエホバと発音していますが)


旧約時代にはまだ「イエス」という神の名は出てこない、知らないはずですが、
モーセは明らかに神の名を知っていた。
と思われます。



それは、モーセだけが神と直接対面した(モーセ80歳のとき)
そのときに、神の名前を聞いていた。


その時「ヤハウェ」と答えたが、ヤハウェは(私は私である)という意味で、
ヤハウェも、本名ではな代名詞。


でも、イエシュアという本当の名前を知っていたので、モーセは、後継者の名にそれを加えてヤシュアと名付けた。という事が分かります。

聖書には隠して表されている、という事も多々ある。





新約聖書ヘブル書13章

(ヘブル書はパウロが書いてると思われます)


世の世界では、

人は1人では生きていけない。

人は人の助けを必要としている。


神は誰の助けも一切必要としていない。
全知、全能、完全、全
(まった)き方。


全て可能であるが、

全てのことはしないし、

出来ない。


それは、神は自分の義を曲げてまで、
祈りに応える事が出来ないからである。


(子の要求をなんでも応える訳にはいかないように)


神は自分が完全であり、義であるので、
それに従って行う。



それと対比して人間は誰一人完全な人はいない、万能、全能ではない。




数字で良く表されるのは、

神は7という数字で表されますが、
それは3と4を足したもの。


4は四方、世界を表していて

3は完全なるバランスのとれた数字


また3と4をかけた12も
神の数字でありますが、


人間は神の数字7から一つ足りない
6で表される。


足りないこととは「愛する能力」


人間は愛する力は生まれつきはなくて、
後天的に学んで身につけること、(愛される能力は生まれたばりの赤ちゃんに備えられていますが)




一生の間、愛することを、少しずつ積み重ねていく事が課題なんであろう。


愛される事ではなく、
愛する事が出来る人格を身に付ける。


人格者とは愛する事が出来るかどうかで
測られるべき。


自分は完全だと思い込んでいるのは、
子供であり未熟なのであります。


子供から大人になるということは、
自分は不完全である事を知り、
受け入れていく事。


そして、不完全な所をお互いに補っていける関係。それで社会が出来上がってくる。


愛する事が見えてくる程、人間の陰の部分を受け入れて、共感していける。


それが分からないうちは、
自分が完璧で正しいと思ってる人は、

自分の要求を当然だと思っている。


こういう人が会社のトップに立つと、
会社は衰退していくものです。


何故、自分が完全だ、正しい、と思うのか、、それは自信が無いからこそですね。



また、自分を愛する事が出来ないと、
人を愛する事が出来ない。


自分の良いところ、ポジティブな面を見て愛しているというのでは不完全で、


《足りない部分、欠けている部分》を含めて受け入れて、それが自分で、それも含めて愛していると思える。


それが出来るようになると、
人からの批判などにも振り回されない。


〇〇な所があるけど、ま、しょうがないよな〜と、受け入れる。


直すというより、受け入れればいい。
それは個性の範囲として、


完璧で理想的な自分を目指すことより、


愛において成長できれば、

受け入れる事が出来る。



まだ、音声の半分くらいでしたがこの辺で〜




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