日本腸心セラピー協会認定
腸心セラピスト養成本部講師の
津波古 知子
(つはこともこ)です

実は‼️
私は腸心セラピーに
出会うまで
セラピーや
カウンセリングを
全く必要と感じたことが
なかった私が

生まれて初めて受けた
60分の腸心セラピーで

定食屋のおばちゃんから
腸心セラピストに‼️
😱😅😱😅😱😅😱😅😱😅
そんな私の
61年間を振り返ってみようと
思い立ち‼️

ちょびっとずつですが
綴っています

お付き合いいただけたら嬉しいです❣️
前回は
でした
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
No.5では
母が私のことが心配でずっ〜と
★自分の赴任先に連れて通わせていたこと
★沖縄なのに毛糸のパンツまではかされてた
なんて話や

成績は悪くなかったけど
おねしょやお漏らしが治らないことや

年の離れた兄たちは
私よりはるかに成績が良いこと

小学校時代は
ずっ〜と
コンプレックスを
抱えていたなぁ‼️😢😢😢

と改めて気づいた回でした❣️

そして、そのコンプレックスって
父からも母からも
もちろん兄たちからも
責められたりしたからではなく 

自分で勝手に抱えてた
(感じていた)
大きなコンプレックス‼️
だったなぁ
との気づきでした❣️

小学校3年生までは
わりとのんびりとした
首里城近くの学校でしたが
私が4年生に上がる時に
母は国際通りも近い
街中の久茂地小学校へ転勤になります

その時
私は生まれて初めて自己主張をしました❣️

それは‼️
近くの小学校の
『松川小学校に行きたい‼️‼️』
と‼️

もう4年生だし3年生の後半からは
母より先にうちに帰ることも
増えていて
(いわゆる鍵っ子です)
だとしたら
別に同じ学校に行くことはないし

何より
近所の子たちと
同じ学校に行きたくって行きたくって‼️

私なりに勇気を振り絞り
ちゃんと母に納得してもらえるだけの
理由もちゃんと考えて
伝えました‼️

母の答えは
『わかったよ』でした😊💕😊💕

やったぁ❣️

と思っていたのですが・・・😢😢😢
蓋を開けてみたら
私は
久茂地小学校への転校😰😢😰😢

えっなんで‼️
わかったよって言ったのに‼️

とかなりのショックを受けながらも

私はまたまた、わがままが言えない子
言いたいことが言えない子に
逆戻り

一言も母をなじることなく
嫌だと一言も言えず
母の決定したことに従いました

生まれて初めての
自己主張は
あえなく
😢😢😢大破‼️‼️😢😢😢

ただ、これが
大きな不信感ってまでには
(小さい不信感にはなりながら)
ならなかったのは

まだおねしょしてたり
お漏らしもしてたし
忘れ物も多いし
みたいなコンプレックスを
引きずっていたんだろうと思います

というのも・・・

母は私が授業を終わって
母の教室に行くと
まず、やることは・・・

私のパンツを触って
濡れてないかを確かめること
でした😱😱😅😅😅

それ以外にも
忘れ物が多くて それこそ
教科書忘れるのも当たり前
(前の日に時間割見て支度をしてないので)
でもそんな時
母の教室に走って
この教科書貸してって・・・😰😰😰
貸してもらってしのいでました😅

母のクラスは
知的障害児のクラスなので
1年生から6年生の教科書が全部揃ってました❣️(ラッキー🤞)


忘れ物は6年間ずっとでしたね

お漏らしは流石に無くなって
5年生くらいからは
パンツチェックはなくなってたな
😅😅😅

ただ
毎日じゃないけど
かなりの比率でおねしょだけは
直ってませんでした

そうそう‼️
高学年には
臨海学校ってあって
お泊りしますよね

私も失敗したらどうしようって
失敗したらどうしよう
友達におねしょがバレるって
本当に本当に
不安だったんですが

同じように母も
心配だったのだと思います

母のしたことは

先生としてその臨海学校に
ついてきたんです‼️

本来なら
自分のクラス
知的障害児のクラスの担任だから
それを他に任せて
臨海学校についてくることが
できたのかは全くわかりませんが

実際に母は臨海学校で一緒だったし
夜中に私を起こして、トイレへ連れて行ってくれました

私としても
友達に
5年生になってもおねしょしてるって
絶対に知られたくないことなので
感謝はしてます❣️😅😅😅

でもね、実は
これまで母は
こんなにおねしょが続いていても

私を夜中に起こすなんてこと
一度もなかったのに・・・‼️
私の不安が伝わったのかな😅


うちの母

このくらい過保護⁉️心配性⁉️
の母でした❣️❣️❣️


そんな超過保護‼️超心配性‼️の母が
東京へ3ヶ月間出張へ行くのですが・・・

その時期が
超過保護‼️超心配性‼️の
母が取る行動としては
不思議な時期でした‼️

それは
私が小学校に入学した
すぐの1学期の時期なんです‼️

その当時は別になんとも思わず
親戚の家の近くの
(ここも国際通りの近くの街中)
壺屋小学校へ入学❣️

朝、父が親戚のうちまで送ってくれて
そこからいとこのお姉ちゃんと
一緒に通ってました❣️

少し大きくなって
母の過保護や心配性が
ほかの親とは違うんじゃないかって
わかるようになると

この
初めて小学校に入る時期って
母の心配性を考えるの
腑に落ちないっっって‼️感じてました

だってお伝えしたように
そのあとの5年半くらいは
あんなに
つきっきりでいた私の心配してた母が
小さい私を置いて
3ヶ月の出張ってあり得ないって‼️‼️

その3ヶ月間特に寂しかったことも
嫌だったわけでもないんだけど


なんか気になってたんですよね〜〜

そしたら‼️
やっぱり‼️‼️

母にとっては
強い決断というか
強い想いがあったので

小さい私を置いたまま

東京へ出張したということが
大人になってわかりました

それは‼️

母は父と離婚したくって
東京で暮らす場や
職場を探すためだったと・・・‼️

母がそう思うのも
もっともなくらいの父でしたが

ちょっと衝撃‼️
でした

父に何をされても
従順に従い、父のためになんでもやる
昔ながらの妻‼️
のお手本みたいな母
だと、ずっ〜と
思っていたので


結局は離婚はせず
母はちゃんと
最後まで父の面倒を見て
しっかりと見送りましたが‼️

この件も後々お伝えできるかもです❣️


わぁ〜〜😰
思いの外
話がふくらんで
良い子ちゃんの私がやらかした
まで
到達しませんでした
ごめんなさい🙏🙏🙏

次回は
No.7良い子ちゃんの知子やらかします❣️
その時の父と母の対応が・・・😢😢😢
をお伝えしますね

最後まで読んでいただいてありがとうございます😊
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