特別な意味をもつ「靖国神社」。
小泉首相の靖国参拝をめぐるさまざまな議論のなかで、
もっとも忘れてはならないことは
「靖国神社」が一般の神社ではなく、戦死者を「英霊」としてその魂を祀っているという点にある。
戦中、出征に際しては「万歳!」と送り出し、「お国のために立派に死ぬ」ことを美徳とした。
そこには命の尊さも、個人の尊重も存在しない。もちろん「主権在民」ではなく、国家の厳しい統制のなかで総動員で戦争への道を突き進んだのだ。
命を惜しまず「天皇のため」に死ぬことこそが日本国民としての誇りであり、義務であった。
背けば「非国民」として謗りを受けた。
非業の死が「犬死に」ではなく、雄々しく散った命を国家が称えるべきだと考える遺族の心情を察するとき
非常に切なく複雑な思いに駆られる。
だからこそ、夫や息子を戦地へ送り出した家は大変な「名誉」であるという状況下で交わされた
「靖国で会おう」という合言葉を、今日においてもなお有効的に扱うことの是非を
きちんと議論すべきではないか。
前首相の中曽根氏がいみじくも言った「首相の役目は自分が靖国参拝することではなく、天皇が参拝できるようにすること」に、ことの本質が表れているように思う。
つまり、本当のネライは「天皇の参拝」により、「靖国」の意義を復活させることではないか。
侵略戦争(少なくとも先の戦争は「民族解放戦争」ではなく「アジア侵略戦争」であった)を美化することの危険性、マインドコントロールの恐怖を思い起こす冷静さが大事ではないだろうか。
悲惨な戦争の傷跡に苦しむ世代が少なくなった今、
先人の悲劇をしっかり受け止め、歴史の検証を怠ることなく未来につないでいくことが
我々の使命だと思う。
ともすれば戦争を知らない世代は「歪められた自虐的な歴史観はけしからん」という扇動に反応しがちとなる。贖罪意識をもつよりは「国を愛す」と胸を張り、居直った方がラクだし、カッコいいと映るのかもしれない。
歴史を知らない世代が、ふたたび過ちを繰り返すのではなく
歴史に学び、平和憲法の意義を租借すべきであると強く思う。
戦後、今日まで平和な国でいられたのは、多くの犠牲のなかから生まれた「憲法」の存在であり、
「平和憲法」の理念を反映させた「教育」であり、平和の存続と侵略戦争を反省する国民の心があってのこと。
この「心」が風化して、また昔に戻ってしまうことをとても懸念する。
次期国会では継続審議となった「教育基本法」の改訂や「共謀罪」「国民投票法」など重要な法案が審議される予定だ。うかうかしていると、あれよという間にがんじ絡めになり、手遅れになってしまう。
この国の未来を創るのは国民ひとりひとりの意思表示にかかっている。
さらなる議論の喚起に向けて最善を尽くしたい。