コロナに入って猫を飼う!

 

話が前後してすみません笑い泣き笑い泣き笑い泣きコロナに突入した時の事を書きます。
 
旦那の休職で復帰が遅れて、暫く旦那は家に居た。そして2カ月目で復帰を許可された。最初は週2,3回の出勤だった気がする。
慣らしというか、なんか決まりでそうだった。
 
旦那はその数回の出勤すら苦痛だったチーン
でも1カ月程通ってたがコロナでテレワークになった。
最初は嫌々だったテレワークも隙間時間に自由に動けるマネージメントもしたので、フレックスを使い、なんとか体調が万全で無い状態でテレワークを開始した。
 
「駄目だ、テレワークでさえ、まともに働けない。残業も出来ないチーンもうへとへとだ。。。」
 
毎日寝込む旦那。
毎日、お金の計算をしては溜息をついていた。
残業代が無いとかなり厳しい生活。。。
 
「今までやって来た事は全部無駄だったんだムキー身体壊すまで仕事するんじゃなかった」
 
険悪な空気の中で生活をしていた。
私もなれないフルタイムの仕事で疲労が貯まっていた。
夫婦二人だけだと息がつまる。
駄目だ。。。えーん
 
旦那はストレスが貯まるとスロットに行ってしまう。車も持って行ってしまうので、私は陸の孤島に居る事になる。
 
私は癒しを求めて猫のサイトを見始めていた。
コロナで一日中一緒にいると大変だ。。。私は仕事に出てるが
一日中緊張していた。そして6月頃に飼いたいと思う猫を見つけたのだった。
 

 

貯金を猫に。。。

 

お金が無い無いと言いつつ、私には貯金が有った。猫が飼えるほどの。普段の生活費は私が稼いで居るので、なんとかなった。

私は自分の貯金で猫を飼う事を決めた滝汗

お金も無いのに・・・と思いつつ初老の夫婦二人が日中一緒に居るのが想像もつかなかった。何か言えば喧嘩勃発

私の両親は早くに亡くなっており、実家は空き家。

帰る家が無かった。自分で環境を変えないと、このままでは駄目になると思った。

私はずっと猫サイトを見ていた。

ブリーダーさんが売りに出すまでずっと見ていた。

最初に見つけたのが西の方のブリーダーさんだった。

産まれたばかりで、目が開いたらまたご連絡しますという会話で終わった。



そこから1カ月した6月末、毎日猫サイトを見てた私は家の近所のブリーダーさんが猫を売りに出しているのを見つけたので、旦那に言わず見学の申し込みを直ぐした。



旦那に「猫を飼いたいんだけど」と言った。



勿論、大反対され、怒られた
「なんで猫なんだよムキーびっくりマーク

実は我々夫婦は結婚する前から犬を飼っており、犬派だったのだ。(そう言う問題でも無い)



でもそんなのを振り切って旦那に車を運転して貰い猫を見に行った。猫とご対面 旦那は初めて間近で見る猫にオロオロ。



でも、私は決めた。この子だと。。。



ブリーダーさんに「宜しくお願い致します」と契約書にサインをした。



即日に引き取れる訳では無かったので、成長するまで待つことになり、数週間後にやっと我が家に猫入居となった。

猫の必要な物は全部揃えた状態で向かい入れたのだった。
猫は南国生まれのスーパーハイパーキャット
イライラしていた旦那はだんだん猫に癒される様になった。



「猫ってこんな可愛いのびっくり?}


トイレも覚えて散歩も要らない。自粛中にはピッタリだった。
猫が家族の仲間入りをしたのだった。

なんだか夫婦がバラバラなベクトルに向かって行き始めた感じでは有った。

息子の面会もコロナで中止となって居たのも有って、私も何か別の事に注意が向かっていた。。。ネガティブ

 
この頃、勿論旦那は投機にハマっていた。持前の記憶力と計算力、分析力で、何故か少しづつ借財を返済出来ていた。
 
お互いが働きつつ、自分の気分を分散して行き始めた感じだった。
 

 

旦那がおかしくなった!!

 

 
しかし、旦那の奇行は続いた。投機で勝っては躁になり、負けては鬱になった。ふて寝も何度もしていた。2カ月料理も頑張ったけど、目玉焼き一つろくに焼けず敗退。躁鬱激しくなっていた。
 
私は彼が消極性障害だと、ずっと思っていた。
DV旦那に多い消極性障害ガーン
 
精神科の薬を何度も変える様促したが、一向に聞かなかった。
ふとした事が引き金となって、彼の怒りを買った。
「使えない奴は損切だムキー出ていけびっくりマーク死ねムキー
あらゆる暴言を吐いた。私は出ていく覚悟もした。
猫つれて実家(空き家)に帰ろうとさえ思った。管理している兄にも、そう伝えた。
 
仲の良い友達にも話した。「離婚する悲しい悲しい悲しい」と。
 
離婚の手引きの様な物を読み漁ったし、離婚した知人にも何からしたら良いか聞きまくった。
 
兄からは「先に仕事をみつけなさい」と言われた。
実家は都内近郊で求人激戦区。。。悲しい
 
前途多難。。。
 
1週間位、私はそわそわしていた。旦那とは口を利かない。
食事も別。
 
でも、自分の部屋に籠りっぱなしは無理でリビングに降りた。。。
 
 
 

 

次回:旦那、自分が発達障害かもと言い出す!!

 

 

 
 
 
 
 

 

 

 

失業保険と苦労の求職

 

会社都合で契約満了で仕事場を去り、失業保険を貰う事に。

毎月3社以上求職しなければならない。

 

毎日求人サイトを検索。家の近所に申し込みをした。。。

5月の頃だった。求職は年末まで続いた。

 

旦那は「失業保険貰えてるならいいよ。焦らなくて良いよ」

 

これは旦那自身が人に言って欲しい言葉を私に言ってるんだと思う。私は毎日気が気じゃなかった。

旦那は寝たきりでスマホをずっと眺めてる日々。

 

そしてずっと投機を繰り返していた滝汗滝汗滝汗

 

テレワーク後にポチポチ。。。

 

私は毎月3社と面接しては断れた悲しい悲しい悲しい

 

4年前に若年性白内障になってから目が良く見えない。

目にレンズを入れる手術してもだ。

 

見えない目で仕事をするのは本当に苦痛だった。

見つけた求人は小さい文字と遠い字を読まない仕事を選びまくった。

 

履歴書を毎月何枚も各所に送った悲しい悲しい悲しい

 

でも歳も歳で、面接してくれる方は皆若かったし、そう言う方は応募してきた女子大学生にばかり声をかけていた不安不安不安

 

派遣に応募しても第一次審査で落ちまくり。。。ネガティブネガティブネガティブ

 

失業保険も生活費に流れて行った。。。

 

旦那ビックマウスになる

 

旦那がだんだん「俺は1億円稼ぐびっくりマーク」と言い出す様になった。

 

私は「ハイハイ。。。」と聞く耳を持たなかった。

 

「俺は一花咲かせたいんだムキー

 

この一点張りだった。

 

「どうせ壁際族だしムキー損切だびっくりマーク損切ムキーびっくりマーク

 

旦那はどんどんおかしくなって行った。。。ショボーンショボーンショボーン

夫婦の間はギクシャクし始めていた。

コロナに突入して夫婦で一日中一緒に居る事が怖くなって来たのだった。

 

コロナに突入して私は当時の仕事のストレスも有り、自粛生活に疲れていた事もあって、猫を急に飼いたいくなって行ったのだった。ナントビックリマークビックリマーク この馬鹿ちんがーーー滝汗滝汗滝汗

 

夫婦で全く違うベクトルを走っていたのだった。。。

 

次回:コロナに入って猫を飼うびっくりマーク

 

 

 

 

 

旦那入院前に戻る

 

旦那は退院後、すぐに出勤出来ると思っていた。しかし会社からは1カ月は来ないでくれ。。。と言われて旦那の士気は下がった。

無収入決定だ。暴言が増えた。

 

「出世競争に入るんじゃ無かった。今までやってきた事は無駄だった。何だったんだムキー

 

当たり散らし、挙句にはキッチンで私のコンブチャの2リットル瓶を

叩き割った。キッチンの床にはガラスが一杯。。。

オロオロしたなが片付ける私。。。足を切った。

 

「無駄じゃないよ。やった経験は無駄じゃないよあんぐり

 

と言ったけど、「ママには分からないんだびっくりマークムキー

 

の一点張り。そして寝込んだ。ずっとスマホを片手に。

 

息子が家に居なくて良かった。。。悲しい悲しい悲しい

こんな暴れる大人が居たのでは無理。。。

 

私は無心で働いた。が、私もストレスや疲労が貯まり、マイカーを

事故車にしてしまった。

 

体調が良く無い日が私も続いた。

 

旦那はスロットにも行った。

 

私は、とにかくお金を稼がないとと必死で働いた。

 

旦那はノイローゼ。。。

 

1カ月後、再出勤が決まっても暫く私に八つ当たりしたのだった。

 

旦那は一日中寝間着でスマホを眺める日々が続いた。

 

コロナが日本に来る1カ月前位である。

 

そんなこんなで、1カ月無収入が続き、やっと会社に週2回位

出勤出来る様になった。

 

が、またしても旦那は怒りながら帰宅してきた。

 

「窓際族ならぬ、壁際族だよムキー

 

休職して評価が下がったのだ。

 

そんなこんな状態からそのまた1カ月後にはコロナでテレワークが

始まった。。。

 

私の務め先には旦那がもう1台の車で送り迎えをしてくれた。

テレワークで通勤時間が減り、時間に余裕が出来たからだ。

 

2年近く働いただろうか。。。私もコロナ切りに遭い定職がなくなったのだ。失業保険が唯一の救い。だが失業保険も生活費に回った。

 

 

投機に夢中になり始める旦那

 

その頃、旦那の会社は副業がみとめられないので、家にずっと居た。全くの素人で投機を始めた。誰のお金???家に入れるはずだった生活費を全部投機に充てていた。全くどうしようもない旦那だ。借金まみれで、現金も無いのに。。。ガーン

 

そう、彼はギャンブル依存症なのだゲロー

 

私は言っても無駄だと思ったので、黙々と働いた。

その変わり、夕飯は手抜きだった。仕事の後へとへとになって車に乗るともうご飯を作る気がしなかったし、作ってあげる気にもならなかった。毎日、お弁当、すきや、蕎麦屋、コンビニの連続。

 

私が働きに出て半年たった頃にテレワーク旦那に「夕飯くらい作ってくれ」と頼んだ。テレワークもさして忙しく無かった。

 

 

旦那が夕飯担当になる

 

6万円の範囲内で一カ月毎日のご飯を揃えて欲しいとお願いした。

旦那は化石人なので、デヴィッドカードの利便性も知らなかった。

YouTubeの「りゅうじのバズレシピ」で男の料理を見て男料理をつくり始めた。油多め、調味料多め。。。2カ月間旦那は見よう見まねで作ったが、食材に火が通ってなかったり、しょっぱかったり、ニンニク入れ過ぎて私がニンニク中毒になるまで作り続けた。

 

旦那の料理で私の体調が一気に悪くなり寝込んだ。

 

旦那はいまだ目玉焼き1個さえまともに作れないでいる。。。

 

もう良い、夕飯は作らなくて良いよ悲しい悲しい悲しいと言った。

 

そしてその夏、私は疲労で倒れ、旦那が出勤の時、自分で救急車をよんだ。心臓が苦しくなって、今にも倒れそう。。。

コロナで受け入れ先も無い所、私を拾ってくれた病院が有った。

家の近所の病院だった。新しく綺麗な病院。

旦那に来るなと言ったが来てしまった。何も出来ないのに。。。

 

その頃私は食欲が無いのに空腹感に襲われる感じの症状が出て

胃カメラ飲んだり、点滴したりしていたが、最終的に抗不安薬で落ち着いたのだったゲロー

 

が、私は古巣のパートさんと派遣さんに、嫌がらせを受けていた。

私の仕事は私だけで完結できるので大丈夫だったが、仕事をバリバリこなすのが気に食わなかったご様子で。。。

 

仕事してるふりしているパートさんや派遣さんにその後、仕事を前任者に一緒になって、取って行ってしまったのだった。コロナで業績も落ち部署も合併した。

 

私も最後の引き継は、最初私がされた様に、簡素な内容で描かれた引き継ぎ書を渡して去った(前任の社員が作った物)グラサン

 

あえて給湯室の掃除は業務内容に書かなかった。

仕事では無いからだ。あくまでも善意キョロキョロ

 

後から、まだそこで働いてる仲良くして貰った派遣さんから

上司が「どらさんは優秀だった」と言っていたと聞いてなんか救われた。だったら辞めさせないで~滝汗滝汗滝汗

 

PS;私は体調不良で年末休職をしてしまいました。

 

次回:失業保険!!月3回の面接の繰り返し!!

 

 

 

 

 

 

月収17万で、どうやって暮らす?

 

旦那が休職して入院。。。悲しい悲しい悲しい

 

今まで残業代にも依存してた我が家。。。家のローン、車のローン、庭の改修工事ローン、そして生活費。。。

毎月の返済とボーナス払いも有ったので(ボーナスも減少)、旦那はパニックになってました。

我が家はお金は旦那が管理してて(前々から、旦那に任せておいて良いのか?という疑問が有った。管理能力が無いと思ってたから)、

旦那は借入を繰り返した。毎月の返済はリボ払いにした。それでも足りなかった。

 

あれほど残業代を加算するなと言ったのに。。。チーン

 

 

突然の宣告

 

 

「今すぐ働きに出てくれムキー

 

突然怒りだした。

 

「俺はもう嫌だ。大国柱で有る事に疲れたガーン

 

旦那の目は遠い目をしていた。

私はもう主婦歴が長いのに今更フルタイムでそこそこ稼げる仕事なんて無い。。。40代後半だぞえーんえーんえーん

 

でも旦那は切迫して私に怒鳴り散らしたムキー

私はオロオロして慌てて求人サイトを幾つも登録して探した。

今思うと私も必死だったガーンガーンガーン

 

あちこちにプリントアウトした履歴書を送った。

たまたま近所の一部上場企業のフルタイムのパートに就職出来る事になった。事務職として。(英検2級持ってて良かった)

 

ガチガチの大手企業であった。

 

いきなりオフィスレディに成り上がった。

が、そこでの仕事はキツカッタ。。。びっくりびっくりびっくり

緊張性片頭痛、首と腰の痛み、人間関係。。。

毎日整形外科に通院してリハビリを受け、痛み止めの注射を4本位

首と背中に打ちながらの生活が始まった。

 

まるまる生活費を私が稼ぐ事になったのだ。

旦那は一切生活費を入れなかった。

扶養から外れ厚生年金に加入した私。。。

 

私はその1、2年前に若年性の白内障になってしまって、目が不自由だった。40代で白内障になると視力が安定しない。

 

目が見えない状態でデスクワークの開始。。。企業で働くのは

20年ぶりだった笑い泣き

 

 

その頃旦那は。。。

 

旦那はその頃、入院中で(精神科)廃人と化していた。

毎日スマホを眺める日々。そして借財の計算。。。

その頃からスマホで「投機」をやり始めていたゲローゲローゲロー

 

が、その入院中にその月に返済しないといけない額を一日で稼いだのだった。でもこの頃はまだ始めたばかりで、一時的な物だった。

旦那もまだ仕事でまた頑張る気持ちで退院まで過ごしたのだった。

 

私は黙々と働いた。官僚的な会社で殆ど引き継ぎが無い状態で自分で自分の仕事を組み立てて禿げながら必死で働いた。

本当に後頭部に禿が出来たのだゲッソリあせる

 

そして旦那は1カ月の入院生活を終え、退院。

退院は任意だった為いつでも出れた。

食事制限をされ、規則正しい生活を送った旦那は痩せて、タバコも規制がかかっていた為、健康的な顔をして現れた。

 

「働ける!チュー

 

と言った。

 

が私の生活費の補填は続いた。。。

 

旦那がウキウキしながら上司に電話した。

 

「働けますグラサンビックリマーク

 

しかし会社は「1カ月来ないでくれ」と言って来たびっくりびっくりびっくり

 

無収入が続く。。。旦那はショックでまた寝込むダウンダウンダウン

 

その時コロナが始まりかけていたのだった悲しい悲しい悲しい

 

 

 

次回: 旦那入院前の体調に逆戻りと現実逃避ガーンガーンガーン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

更年期でした!!

 

 

いや~どこまでお話しましたっけ???

この3年間更年期でダウンしてました煽り煽り煽り

 

ブログも息子を預けてからポツポツだった気がします。

知らない方もいらっしゃると思うので、簡単に経緯をお話しします。

 

私は高齢出産をして、息子が重度心身障害者(稀な染色体異常)で生まれて、その子育てに、そりゃあもう追われて

おりました。主人は遠い病院までは運転してくれますが、全く使い物にならず私が殆ど育児してました。

息子が小学校に上がる寸前、主人の鬱勃発。そもそも息子が生まれて適応障害になったんです。主人が。

私も息子を抱っこして、通院の日々の中、このままいったら家族共倒れだ。。。私には頼れる両親が居ないし。。。

私も高齢でこの先、息子を守りながら、小学校に入った途端、就労施設やグループホーム探しになるんだ。

しかも、息子は寝たきりでも無い、かと言って歩けないので、どの施設もお断り。。。ガーン

 

もう歩いて情報収集しました。勿論ネットも使ったり。

神にもすがりましたよ悲しいそして、やっと人のつてで、息子が将来安心して暮らせる病院施設を見つけ、2度面接に行っては落ち。。。

でもその後すぐ入所許可が下りて、息子は「入院」という形で施設に入りました。勿論扶養に入ったままです。

 

預けてから即、毎週末面会に行きました。息子は重度知的障害ですが、私の顔を見ると「迎えに来た!」と喜びます煽り

心が痛い滝汗滝汗滝汗

 

それを3年弱くり前してました。毎週末会いに行く・・・

 

 

私、急に息子が居ない生活に馴染めずノイローゼ。。。

 

 

そしてその頃の主人は「仕事!仕事!出世!出世!」と奮闘しており、でも別の部署に異動になったり、ノイローゼになったりで

毎日会社から愚痴メールが届く日々。。。それが3年位続いてとうとう鬱で倒れて入院してしまいましたゲローゲローゲロー

 

 

休職!!給料激減!!

 

 

借金に借金を重ねて。。。びっくりびっくりびっくり

 

 

次回:我が家、自己破産!?どうなる???我が家 with コロナびっくりマークびっくりマークびっくりマーク

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

久しぶりに投稿します!!!

息子が産まれた時からblogを書いてましたトムくんママです。

息子は2010年に産まれ先天性の重複障害(歩けない、聞こえない、四肢麻痺などなど)

含む染色体異常で産まれました。


旦那は息子が産まれてから適応障害を勃発

そこから凄く大変な事に。


療育に明け暮れる日々と旦那の癇癪他害に悩み最近やっと旦那が発達障害と分かりました。


 話せば長くなるのでこの辺で。


いつも読みに来てくださる皆さん!!

有難う御座います!!

 

#あらためて自己紹介

 

クリスマスカード画像

 

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育児に真剣になっちゃいけない、落ち着け!

とずっと自分に言い聞かせてた。

大丈夫。ご飯食べさせて、お風呂に入れて、寝かせる。コレを繰り返すだけ。

玩具は貰い物や、付録や、マックのオマケ。後は買い足したママごとセット。

0歳の知育玩具を使える様になったのは4歳位。

プラレール、戦隊モノ、おかいつと言った神の領域に達して無かった。

玩具を蹴飛ばすだけが息子の遊び方。

大丈夫。

この子はきっと成長する。

積み重ねだ。

と毎日自分に言っていた。

刺激が、この子には必要だ。

あちこち、連れて回った。

でもスーパーに有る、椅子が付いたカートには乗れなかった。座位が安定せず、足も畳まず、身体でカートを揺らしてしまう。

身体が大きな息子は特に目立ってしまった。

気にしては駄目だと思いながら、何処かで気になってたんだな。そのうち息子を車にお留守番させる事が多くなった。

でも、どうにかしたい。

少しでも、私が動かすぬいぐるみに笑ってくれるなら、重度知的障害でも、何か発達しないか?と、必死だったのだ。


生後100日目で朝まで寝てくれる様になったと安心したのも束の間。

今度は飲んだミルクが30分後に、胃から逆流して溺れそうになる事になる。

ゲップを出さなくても良い時期に入っても、息子が眠った後、直ぐにやって来る逆流...

やっと寝たと思っても、そこから監視。

30分後、息子の目がパチッと開いて、ゴボゴボーっともがく!

溺れてる!と私は抱き上げる。

すると、口からバシャーとミルクを出す。

着替え、シーツの取り替え。

コレが毎晩続いた。

5歳まで続いた。

日中も、外出時にも吐いていた。

ベビーバックの中は数枚の着替えを入れた。

車の運転中、バックミラーで見ると、吐いている息子を度々見つけて、通院先まで車を止められず、焦った事が多かった。

吐き癖がついてしまい、息子は嫌な事が有ると自分で吐く事も覚えた。

食事中も、食べてたかと思ったら、ゴロゴロ〜と喉を鳴らし始め嘔吐。

もう、吐く事が日常だった。


首が座るのに2年近くかかった気がする。

離乳食をあげたくても、起き上がらない息子。

バウンサーに乗せて食べさせたが、斜めになって飲み込めない。

この時まだ医療センターは受け付けてくれなかった。

食べて、喉に詰まって、むせる...

もうどうしよう...

すり潰した物でさえ。

色々離乳食を作ったけど、噛めない、飲み込めないで、苦戦した。

最後は障がい児の定番のヨーグルトになった。

すり潰した栗カボチャとヨーグルト。毎日毎日あげた。冷凍の栗カボチャをストックするのに、専用の冷凍庫まで買った。

栗カボチャがその後販売中止になる1年間位まで食べさせた。途中から栗カボチャが、色んなカボチャが混在して売られる様になり、解凍するとベシャベシャになった。裏ごししても、ほっくり感が出なかった。

でもちょうどその頃、離乳食は終わった。

が、今度はやや普通のご飯をあげて見るが、掴み遊びをしだして食べなかった。スパゲッティは、ことごとく床に落とされた。

手掴み出来そうなおにぎりも食べなかった。

ウィンナーも、何も。

何をあげてただろうか...

療育園に1歳頃、週1で行ける事になった時、お弁当持参だった。何を食べるのか全く分からなかった。色々詰めても噛めない、飲み込めない。丸呑みして、吐いてしまう。

暫く、柔らかい炒飯の様な物をジャーに入れて、スタッフさんに食べさせて貰った。

私じゃ無ければ、環境が変われば食べる息子。

療育園で、とにかく1食食べてくれる事を期待した。

お弁当も手掴みで食べれる物ばかり入れた。

なんでも食べる子じゃ無かった。特に私の前では。

いつからだったか、毎朝おにぎりを床に座らせて食べさせた。多動も有り、座るのも下手だったので、椅子を使うのを諦めた。食べてくれれば良い。それだけ。

夕飯は、目玉焼きに醤油をかけたご飯を毎晩あげた。

噛まない、丸呑みだった息子には、ご飯と卵焼きが精一杯だった。

子供特有のバナナや、ベビー煎餅さえ受け付けなかった。お粥は大嫌いだった。ベチャベチャしてる物は嫌いだった。

食の経験が必要とは聞いてたが、経験にもならなかった。

食事には本当に困った。

しかも、食べれないのに、そのうち食に興味を持った息子の一口が大きかった。

公園の出店の焼きそばや、ラーメンなどは凄く欲しがった。

吐いちゃうよ...と心配しながら食べさせたが、やっぱり吐いた。

食べては吐くがずっと続いた。

それと牛乳。

フォローアップミルクが終わり、牛乳にしたが、子供は飲みたがる。あげないと泣く。床に頭を打ちつける。

諦めて牛乳をあげてたが、もうオムツの替えが大変だった。夜は絶対漏らす。オムツから漏れてしまう。寝る前の牛乳はあげたく無かったが、あげないと泣いて自傷し始める。

毎晩、朝方に起こさずオムツを替えるのが日課になったが、いつも間に合わなかった。

オムツもなかなか大変だった。

3、4歳になった頃は、直接卸店から箱買いしてた。町からオムツの補助金が降りてたので、困らなかった。

毎日、なんかバタバタしていた。
でも吐こうが、オムツ替えが必要でも、あちこち連れて歩いた(歩かないけど)。

食べない時は、牛乳を与えた。

本当は経口栄養が必要な子なんじゃないかと心配してたが、病院は受け入れてくれなかった。



産まれて来る子に障がいが有るんじゃ無いかと妊娠する前からなんか思ってた。

なので、息子が重度知的障がいと身体障害が有る事、耳が悪い事、物が上手く噛めない事、玩具の認識が出来ない事、手足の麻痺で、感覚が鈍い事、脳が白い事、歯の数が少ない事、色々有ったけど、私はこの子を育てるんだと、産まれた時に思った。

育児本は読まなかった。

発達障がいの本も読んで無い。

ただ息子を受け止める。

それに徹した。

嘔吐や吐血で、救急車を呼んでも、毎晩服やシーツを取り替えるのにも苦じゃ無かった。

ただ、旦那にも息子が障がいが有る事、一緒に育てていく覚悟が欲しかった。

でもそれは未だに叶えられて無い。

産まれて3年後にやっと座れる様になり、お尻で移動出来る様になって、息子は嬉しそうに動きまわり、引き出しを片っ端から開き始めた。

バッグの中身、財布、何でも手をつけ始めた。

それは10年経っても変わらない。

息子の発達に合わせて、病院を回った。週2回往復80キロのリハビリにも通った。
療育に良いと聞けば飛んで行った。

夜、なかなか寝ないのも困った。

その中、子供に障がいが有っても平気だと言うママさん達に会う。

彼女達の行動力を真似した。

上級医も紹介して貰った。

会った3人の上級医のウチ2人は

「この子は大変な子になる。お母さん、覚悟が必要だよ」

と言って来た。

私は、心が締め付けられた。