【1】世代間分裂の始まり?

最近の各種世論調査によれば、児童手当における「所得制限の撤廃」について、年代が高くなるほど反対する者の割合が高くなり、子育て世代からは「シルバー民主主義」だとの不平・不満等により、世代間分裂のおそれが生じる勢いである。

 

ここでは、ひとまず「児童手当法」が制定されるまでの歴史・沿革を振り返り、そもそも「児童手当」とは何者であるかを考えてみたいと思う。

 

【2】児童手当制度の萌芽

終戦直後の昭和21年、最初に児童手当に言及したのは、大河内一男や近藤文二たち社会政策学者が参集した「社会保障研究会」による「家族手当」の提案である。

 

この「家族手当」は、妻と義務教育終了前の児童すべてを対象としたもので、祖父母などを排除して核家族に限定したものであった。祖父母などを排除したのは、「戦前の家父長制度を排除し、日本の民主化を進めるため」である。

 

翌年の昭和22年には、「社会保険制度調査会」が「社会保障制度要綱」を発表し、傷病、障害、死亡、出産、老齢、育児、そして失業に関する全国民を対象とした総合的な社会保障制度の創設を勧告した。その社会保障制度要綱では、義務教育終了年齢以下の児童に対する「児童手当金」の支給を提言していたが、その優先順位は低く、新たな年金制度(国民年金法創設の構想)における老齢年金の創設に次いで6番目の事項となっていた。

 

なお、はるか昔、平成12年度社労士試験の選択式問題〔社一〕にも出題された「社会保障制度審議会昭和25年(1950年)勧告」においては、その勧告を発出する前提としての「社会保障制度確立のための覚え書き」(1949年)や「社会保障制度研究試案要綱」(1950年)には「家族手当」に関する記述が存在していたが、最終的に採択された「昭和25年勧告」では削除されてしまっている。

 

当時は、終戦直後の焼け跡からの復興こそが最優先の時期であり、緊急性の高い施策から実施することが重要であった。

 

また、ベビーブーム(いわゆる「団塊の世代」)による人口急増への懸念や、イギリス型の社会保障制度を好まなかったGHQの意向もあったのではないかと言われている。いずれにしても、その後の約10年間ほどは、児童手当に関する議論が消えていく暗黒の時代であった。

 

【3】児童手当制度の議論復活

昭和35年5月、厚生省は、児童手当制度の検討に入った。

これは、国民皆保険のための国民健康保険法、そして国民皆年金のための国民年金法が成立し、高度経済成長期を迎え、若年労働力不足が懸念されるようになったからである。

昭和36年版厚生白書』では、初めて児童手当創設の必要性について言及している。

 

また、池田内閣が閣議決定した「国民所得倍増計画」も、「年功序列賃金制度の是正を促進させ、これによって労働生産性を高めるためにも、児童手当制度の確立が必要である」との提言を含んでいた。

 

厚生大臣は、閣議の了承を得て、「中央児童福祉審議会」に特別部会として「児童手当部会」を設置し、児童手当の審議が開始された。

 

社会保障制度審議会も、次のように述べて「多子家庭の貧困」を防止するために児童手当法の創設を求めている。

 

「多子による貧困を防止するための施策は、ながらく放置されてきた。母子福祉年金の創設が契機となって、生別母子家庭等に対する児童扶養手当制度が始められたけれども、これだけでは多子による貧困は防止しがたく、西欧諸国に対しておおきな立ち遅れがある。いまや、本格的な児童手当を発足させるべき時期であろう。」

 

昭和38年には、経済審議会から「人的能力政策に関する答申」がなされ、「児童手当は、単に児童の福祉増進に役立つだけでなく、賃金体系の合理化により職務給への移行を促進する意味もあり、生活水準の実質的な均衡化、中高年労働力の就労化促進等人的能力政策の方向に沿った多くの役割を果たすものと思われる。」と述べ、児童手当法の早期実現を求めた。

 

この答申によると、児童手当は次の4点に貢献するものと考えられていた。

①職務給への移行による賃金合理化

②中高年労働力の流動化

③扶養児童数と収入の不均衡の是正

④将来の労働力となる児童の資質向上

 

【4】中央児童福祉審議会児童手当部会の中間報告

昭和39年、中央児童福祉審議会児童手当部会は、中間報告を行い、4つの視点を示した。

 

(1)児童福祉の視点

児童の福祉を積極的に向上させるため、児童手当によって経済的に保障しようとする立場である。この立場では、児童手当は児童の生計費を給付し、その健全育成を社会的に保障しようという制度と位置づけられる。児童福祉の視点からは、すべての児童を平等に取り扱うことが求められる

 

(2)社会保障の視点

社会保障の視点は、子どもを持つこと、特に多子は貧困の主要な要因であるという考え方に立脚している。児童手当は、家計を圧迫する児童養育費を補助するものということになる。この立場からは、社会保険方式によって最低限必要な養育費をカバーすることが適当となり、原則としてミーンズテストなどで制限を加えるべきではないとされる。また、多子ゆえの貧困を防止するという立場からは、第1子、第2子に対しては非給付、減額措置もあり得るということになる

 

(3)賃金体系の視点

労働者の賃金が生活保障給的年功序列賃金になっており、家族給(賃金形態としての家族手当)が存在することが我が国の賃金体系の大きな特徴である。しかし、労働力不足が懸念される状況の中で、経済成長に対応した技術革新、優秀な労働力の供給、労働力化率の向上を図ることが必要となっている。そのため、終身雇用制を緩和し、労働力の流動化を図ることが重要となってきた。その手段として児童手当制度をとらえようというのがこの視点である。この立場は、賃金のうち社会保障に相当する部分を児童手当として切り離し、職務給への切り替えを目指す。このように児童手当をとらえると、支給は第1子から、できるだけ広範囲に行うのがよいということになる

 

(4)所得格差是正と人間能力開発の視点

生活保障給的年功序列賃金体系が見られるのは主として大企業においてであり、中小零細企業の被用者、自営業者等の所得との間には大きな格差が存在する。この所得格差を是正するため、家計における最大の負担というべき児童養育費を全国民的に給付する児童手当によって補助しようという立場である。これは同時に、人間能力の開発ないし将来の優秀な労働力の確保にもつながる。

 

※この中間報告では、財源に関して被用者については事業主負担を中心とすべきとしていたが、これが次に述べるように大きなネックとなった。

 

【5】大蔵省及び財界の反対論

この中間報告に対しては、費用負担を強いられる財界と、財政を預かる大蔵省が難色を示すこととなり、時期尚早論が強くなったため、厚生省は児童手当法を確実に実現できる次の機会を待つことにしたのである。


ただし、厚生省として何もしていなかったわけではなく、イギリス、フランス、西ドイツ、カナダ、オーストリアに調査団を派遣し、各国の児童手当法制についての分析を報告書としてまとめている。特に第1子に対しては非給付とし、第2子以降の児童に対して家族手当を支給するフランス法の影響が大きいとされている

 

しかし、政党や各種団体、審議会など、各方面からの児童手当創設を求める声は昭和41年になるとますます高まっていき、厚生省は、まず昭和43年度を目途に、次には昭和44年度を目途に、佐藤栄作内閣総理大臣も「厚生大臣の答弁したことをさらに督励したい」とまで答弁したが、依然として財界は児童手当法の成立に難色を示し、大蔵省は消極的だった。

 

そのため、昭和42年には、児童手当法成立を待ちきれない自治体、例えば、東京都武蔵野市や岩手県久慈市などが独自の児童手当を実施するようになり、この流れは他の自治体に広がっていった。

 

児童手当の導入に積極的だったのは、内閣、厚生省そして地方自治体であったが、反対勢力は、財政負担にかかわる大蔵省、財界、そしてこれら二者と密接な関係にある自民党内の反対派であった。

 

大蔵省の反対論は次の通りであった。

①児童手当制度には、多子による貧困の防止、児童福祉の向上、賃金制度の合理化、人口の増加などの目的ないし意義があるとされているが、その効果は必ずしも明らかではなく、社会保障を充実させていく際に、児童手当制度を優先させることには疑問がある。

②既存の児童扶養手当、年金における加給、賃金体系における家族給、税制上の扶養控除などと児童手当をどのように調整するかについて検討を尽くさなければならない。

③児童手当には何らかの意義・効果があるにしても、国民が負担に耐えうるかという問題がある。事業主がどの程度の負担に耐えうるのか、どの程度の租税財源が投入可能なのか、目途が立っていない。

 

当時の日経連は、昭和44年11月に「児童手当制度に対する見解」を発表し、次のように述べて反対論を展開した。

「児童の養育は、本来親の義務でもあり、しかも最近の所得水準の上昇に伴って大部分の家庭については、養育費の負担を困難にしているとは考えられない。養育費中には、教育費の比重が高いことからすれば、むしろ直接教育費の軽減を図る施策の方がより実効的であろう。児童の健全な育成は、もとより重要な問題であるが、それには、児童福祉対策をはじめ、教育、生活環境の改善等総合的対策が必要である。

本制度の創設には、これに人口確保の期待をかけているようであるが、人口対策としては本制度の実施以前に解決すべき問題が山積している。」

 

「……ただ、我が国の人口問題が現在重大な転機に立っていることは事実である。特に生活の楽しみを主として多子を嫌うごとき最近の風潮もあるところから、あえて総合的な人口対策の一つとして本手当の実施を考えるならば、それは、社会保険などより高い次元に立った人口政策という国策の一環として理解すべきものであろう。」


「したがって、その必要財源は、国税、地方税等により、国民の負担能力に応じ、企業を含めたすべての国民が公平にこれを負担することを建前とすべきである。」

 

「財界の立場としては、児童手当の意義の一つとして従来から挙げられていた賃金体系の合理化と労働力人口の増大には賛成できる。しかし、児童手当の財源を財界が負担するとなると、すでに『賃金体系としての家族手当』を支給している企業は、二重負担を負わされることになりかねない。」

 

【6】それでも児童手当法が成立した理由

日本において児童手当法がなかなか成立しなかった理由は、主に次のような要因による。

①賃金体系の中に「家族手当」がすでに含まれていたこと。

②「年功序列型賃金」が堅持されていたこと。

③児童手当が「人口増加」をもたらすと懸念されていたこと。

④「消費者物価」が比較的安定していたこと。

 

しかし、昭和40年代に入ると、徐々に変化が生じてくるようになった。

まず、年齢別賃金格差が縮小し、労働力供給源が変化し、消費者物価が上昇し始めた。そして、高度経済成長により若年層を中心とした労働力の不足が生じるようになる。このことが若年層の賃金を上昇させ、中途採用者や女子労働者の増加も相まって年齢別賃金格差はますます縮小していった。

 

消費者物価の上昇により、実質賃金は低下し、生活費の構造も変化し、教育費や住宅関連費などの負担が中高年層になってから増大する傾向が強くなっていく。

 

こうして児童手当が必要とされる状況が生まれ、昭和46年5月27日、「児童手当法」がようやく公布され、昭和47年1月1日から一部施行、昭和49年4月1日から完全施行するに至ったのである。


ただし、最後の最後まで費用面で難色を示した大蔵省を説得し、財界の協力を得るため、施行当初は、義務教育終了前の児童を3人以上有する場合に、5歳未満の第3子以降の児童を支給対象として、1人当たり月額3,000円を支給するという極めて限定された内容で児童手当法を実施させることとなった。


《追記》

なお、平成24年度から支給率はおおむね90%となっていますが、これは、おおむね所得上位10%の世帯について所得制限にするという意味です。