2026年2月6日(金)
文書に残された「事実」と「表現」の乖離
これまで、
制度・裁判所・行政文書を軸に、
起きた事実を一つひとつ整理してきました。
そして今回も、
文書を読み解く中で浮かび上がってきた
いくつかの違和感について書いていきたいと思います。
その中でも、
どうしても触れておく必要があると感じた
ある一文があります。
この通知書には、
「改善すべきことを繰り返し助言指導してきた」
と記されています。
しかし、私たち家族の認識では、
実際に行われた面談は 3回 でした。
定期的な関与や、継続的・反復的な指導があったとは言い難く、
「繰り返し」という表現が、
具体的に何を指しているのかは分かりません。
判断の根拠となる文書であるからこそ、
事実の積み重ねと表現の正確さは、
より慎重に扱われるべきではなかったのか――
その疑問が残っています。
「正当化していた家族」という整理への違和感
文書には、
家族が状況を正当化していたかのような記載も見られます。
しかし私たちは、
危険や困りごとがあること自体を
否定したことは一度もありません。
むしろ、
・どうすれば安全に過ごせるのか
・どのような支援や環境調整が必要なのか
を、行政と一緒に考えたいという姿勢で
関わってきました。
改善を求め、協力を申し出てきた家族の姿勢が、
いつの間にか「正当化していた側」として整理されていることに、
強い違和感を覚えています。
「現地調査を実施した」とされる記載について
文書には、
「現地調査を実施し、養護者が主張する全ての項目について聴取を行った」
と記されています。
しかし、私たちが一貫して問題として伝えてきた
送迎車の乗り降りに関する実地調査 については、
その実施を裏付ける記録が見当たりません。
誰が、いつ、どのように確認したのか。
乗り降り時の動線や介助方法、身体への負荷について、
具体的に調査した記述は存在していません。
それにもかかわらず、
「裏付ける実態は確認できなかった」と結論づけられている。
私たちはそこに、強い不自然さを感じています。
調べていないことを、
調べた結果であるかのように整理することは、
検証ではなく、
結論ありきの評価になってしまうのではないでしょうか。
「自発的に提出された改善計画書」という表現
文書には、「改善計画書は自発的に提出された」と記されています。
しかし実際には、
提出しなければ不利益が生じることが示され、
強い圧力のもとで選択を迫られていました。
不利益を回避するための行動を
「自発的」と表現することは、
事実を正確に反映した記述とは言えないのではないか。
さらに、
その後に行った署名活動や意見表明が
「疑義」として評価されている点についても、
異議を唱える行為そのものが
不利に扱われている構造を感じざるを得ません。
それは、この文書に必要な記載だったのか
そのうえで、
どうしても最後に触れておきたい一文があります。
行政文書に突然書き込まれた「係争中の裁判」
文書には、次のような記述がありました。
「係争中の事件(施設入所措置処分取消等請求事件)では、
不自然な痣に対する認識を一転し、
『虐待(ネグレクト)認定は事実ではない』との主張に至っている。」
この一文を読んだとき、
私は強い違和感を覚えました。
それは、この通知書に必要だったのか
この通知書は、
施設入所措置を解除する理由を説明する文書です。
本来であれば、
・安全性の判断
・支援体制の検討
・本人の生活に関する評価
が中心になるはずです。
それにもかかわらず、
・係争中であること
・裁判での主張内容
・主張が変わったかのような書き方
が、なぜここに書き込まれているのか。
裁判で主張することは「不利」になるのか
裁判で異議を申し立てることは、
誰にでも認められた正当な権利です。
主張を整理し、表現を修正することも、
訴訟では自然な過程です。
それを
「認識を一転した」
と断定し、行政文書の中で評価する。
その書き方は、
裁判をしていること自体が
マイナスであるかのような印象を与えます。
問題は「事実」ではなく「書き方」
この一文がなくても、
措置解除の判断は説明できたはずです。
安全性の評価とも、
直接の関係はありません。
それでも、あえて書かれている。
だからこそ、
私はこう思わずにはいられませんでした。
これは説明ではなく、
家族の信用性を下げるための一文ではなかったのかと。
問われているのは、誰の人生か
行政の判断に異議を唱え、
裁判という手段を取った家族。
その事実が、
行政文書の中で静かに記録され、
評価されていく。
もしそれが当たり前になるのだとしたら、
次に「判断される側」になるのは、
私たちだけではありません。