2025年12月24日(水)
家族が「要因」にされていく構造
支援の場で、静かに起きていること
支援の現場で、家族がいつの間にか
「支援する存在」ではなく「問題の一部」のように扱われていく瞬間があります。
それは、特別なトラブルが起きたときではありません。怒鳴ったわけでも、無理難題を押しつけたわけでもない。
ただ、判断の理由を知りたかった。記録の根拠を確認したかった。納得できない点を、問い続けただけ。
その行為が、少しずつ「うるさい」「感情的」「扱いづらい」というラベルに置き換えられていきます。
同じ内容を専門職が口にすれば「建設的な意見」になるのに、家族が言うと「感情が強い」「関係性が難しい」と整理される。
この時点で、立場の非対称性が生まれています。
本来、説明を求めることは当然の権利のはずです。
なぜこの判断に至ったのか?
他の選択肢はなかったのか?
何を重視し、何を切り捨てたのか?
けれど現実には、説明を求める回数が増えるほど
場の空気は静かに変わっていきます。
「また説明を求めている」
「納得しない家族」
「関係性がこじれる」
説明を求める行為そのものが、
いつの間にか“リスク”のように扱われ始めるのです。
そして多くの家族が、ある時点で気づきます。
声を上げるほど、不利になる。
黙っていれば、話は進む。
こうして家族は、
納得したわけでも、同意したわけでもなく、沈黙を選ぶようになります。
沈黙は同意ではありません。
諦めでもありません。
それは、
「これ以上当事者を傷つけないため」
「これ以上関係を悪化させないための」
必死な防衛です。
しかし皮肉なことに、
その沈黙は記録の中で
「特に異議なし」
「大きな問題は見られない」
という形に変換されていきます。
声を出さなかったことが、
「問題がなかった証拠」になる。
こうして構造の中では、
声を上げれば「うるさい」
説明を求めれば「扱いづらい」
黙れば「問題はなかった」
という整理が、
ごく自然なものとして定着していきます。
その先に残るのは、
「施設は対応していた」
「行政も判断した」
「では、なぜ問題が起きたのか」
という問いです。
そしてその答えが、
いつの間にか家族という個人に回収されていく。
「関わり方に問題があったのではないか」
「影響を与えすぎていたのではないか」
本来、支援を担ってきたはずの家族が、
少しずつ
「距離を取るべき存在」
「状況を悪化させかねない要因」
へとすり替えられていく。
それは事実認定というより、
物語の方向づけに近いものだと感じます。
この構造は、決して特別な家族だけの話ではありません。
障害、病気、老い、事故。
誰もが、ある日突然
「判断される側」になります。
そのとき、説明を求めることが不利になり、
沈黙した人だけが「問題のない人」とされる社会でいいのでしょうか。
支援とは、
人を黙らせるための仕組みではなく、
一緒に考えるための関係であってほしい。
家族が「要因」にされていくこの構造は、
今、声を上げている人だけの問題ではありません。
沈黙の先に、いつか自分自身が立たされる可能性のある場所なのだと、私は強く感じています。