(勝手な思い込み、ネタバレあり。一日空けましたが、最終回をこれから見る方はこの記事を飛ばしてね^^)
名脚本の見本のようなストーリー運びだったんだと今にして思う。
小説家や脚本家は、最後のその一番自分が言いたい瞬間にかけて、長い長い道を歩いて行くように話を書く。
まさにそのように一歩一歩、歩を進めるべくして「サイレーン」は終焉に向かって歩いていた。
私は無差別事件や猟奇的ストーリーが好きではない。
背景に何があり、核の部分にどんなマグマがくすぶっていたか、かさなった偶然の奥にも必然な何かが必ずやあるはずなのに、ご都合主義でまとめられたり進んでいく話が好きではない。
菜々緒演じるカラの強いインパクトに目がかすんで、最終話に辿り着くまで事件の鍵はずっとただのサイコパスのマーダーなのだと思っていた。
そうではなかった。
最終回で圧巻だったのはなんといっても木村文乃。
助かったゆきの病室シーン、見ていた一視聴者の私でさえ、一瞬で「どこか変」という違和感を感じた。
そう動物的カンを一秒で匂わせる木村文乃のすごさ(たぶん立ち姿と視線。髪の毛ね)。
ここまでずっと菜々緒が一人歩きしていたように見ていたけど、ここが着地点としてこの演技のために、ずっと虎視眈々と引き算で演技をしてきた 木村文乃って化け物なんじゃないかと怖くなった。
少女期の多感な時期、ホルモンバランスの乱れからか自律神経を乱してしまう事例が女児には割と多めな割合で起こるという。
そんな内容の研究書物を読んだことがある。
年頃の女子学生が同級生に手をかける事件といえば九州の事件が記憶に新しいが、
それをモチーフにしながらも、細かい描写は何もなかったが壮絶な環境に一人の少女が立たされていたことが過去のサチの表情から見てとれた。
すべて 表情に。(木村文乃すごい)
過敏な精神の糸を斬つようなどれほどの苦しみや悲しみが、"彼女" を襲ったのだろう。
施設に入っていたサチの母が、すでになくなった記憶の果てにいたサチと間違い、現れたゆきに「ごめんね」を繰り返したことでその地獄が垣間見えた。
生きていくことに絶望した少女。
そしてずっとそこからひとりで生きてきたんだね。
正義の塊だったゆきに出逢い、サチはきっと本当に手に入れたかったものを知り震えただろう。
きらきらとまぶしくて、真っ直ぐでしなやかで、自分の持ちえない世界にいるゆきに。
だがそれはなんとなくだが嫉妬や憎しみではなく、同じ顔と同じDNAを持って生まれてきた"自分"の
生きる意味の答えさがしだったように思う。
一番のクライマックスは、サチの卒業アルバムの顔写真が出た瞬間だ。
サチの正体がわかったとき、
サチの叫びが一気に津波となってテレビの画面からあふれてきた。
生きている意味が見つけられず
生かされている理由がわからない。
一人で生きていくと決めた少女の 孤独感ははかりしれない。
きっと何度も死のうとしただろう。
でもそのたびにわきあがる、"なんのために自分は生まれてきたのか"。
きっと何か、意味はある。その答えをさがしたい。
だが間違った選択だが誰かの命の火を消していっても、その答えは当然見つからない。
そうして過ごす日々の 気の遠くなる修羅の道。
はかりしれない孤独が 絶望が、苦肉にも同時にサチの生きている証だった。
自分なんかいらない、
自分なんか愛されない、
姿かたちが忌々しくて きっと何度も自分に刃を向けただろう。
ずたずたに傷付きすぎて 痛みがわからない。
ぐしゃぐしゃに潰されすぎて 心が見当たらない。
ドラマ評を見ていても、どこでもずっと「橘カラ」のことしか書かれていなかった。
整形を繰り返し他人になりすますといえば、時効寸前で逮捕された元ホステスの事件になぞらっているだけでしょうと。
どうもそれもピンと来なくて、私は「サイレーン」がそこまで好きになれなかった。
でも 「サイレーン」は、カラの話じゃなかった。
大好きな宮部みゆきの小説に「火車」という話がある。顔を変え名前を変えた被疑者の女性を、追う刑事の話である。
その読後感はとても「サイレーン」に似ているように思う。
おかしなことにどちらも最後に、悪女だと思っていた彼女の、気持ちがやはり雪崩のように降ってきた。
"彼女"が "私"であり、"私"が "彼女"であった可能性もありえたのだ。
サイレーン
http://www.ktv.jp/siren/index.html