NHKの歴史ドラマ「源頼朝」をみて、かつて河内源氏の里を歩いたことを思い出しました。
河内源氏三代と呼ばれるのは、源頼信(968~1048)・源頼義(988~1075)・源義家(1036~1106)です。義家のひ孫が源義朝、源義朝の子が源頼朝・源範頼・源義経です。
平安時代の後半になって、急速に武士が力を伸ばし始めた頃、源満仲の三男頼信は河内守となって、寛仁4 (1020) 年に河内国古市郡壷井里の香呂峯に居館を構えて本拠地とした。数々の武功によって大きな勢力を築いた名族源氏の始まりである。
頼信とその子頼義、孫の義家らは、平忠常の乱(1028~30)や、前九年の役 (1051~62)、後三年の役 (1083~87)などの相次いだ戦乱で活躍し、関東、東北地方へも地盤を広げていった。彼らの子孫には、鎌倉幕府を開いて将軍となった頼朝や、その弟義経などがいる。
頼信らが住んだ館の跡は、壷井八幡宮が鎮座する丘の上にあると伝えられている。今のところ、場所や規模などを知る具体的な手掛かりはないが、武家の棟梁にふさわしい豪壮な屋敷が造られ、たくさんの武士たちが集まっていたことだろう。(現地の説明板より)
源頼信の父は源満仲。源満仲の父源経基は清和天皇の孫になります。
最寄り駅は、近鉄南大阪線の「上ノ太子」です。
ここで下車し、壷井八幡宮をめざし歩きました。
壷井八幡宮の鳥居をくぐります。
この辺りは壷井の香炉峯といわれ、河内源氏発祥地として知られており、平安時代中期の寛仁四年 (1020) 、源頼信が河内守に任官してこの地に私邸を営み、康平七年 (1064) に前九年の役を平定した頼義 (頼信の子) が、石清水の神を私邸の東側に勧請したのが壷井八幡宮の起源である。
また、左側にある壷井権現社、源義時 (頼義の子である義家の五男=頼信のひ孫)が河内源氏の祖神として天仁二年 (1109) 創祀したものである。
現社殿は、両社とも元禄十四年 (1701) に徳川綱吉の命で柳澤吉保再建したものである。
(説明板より)
壷井八幡宮
壷井八幡宮
壷井八幡宮
壷井八幡宮
壷井八幡宮
壷井八幡宮境内に立つ源義家の歌碑
壷井八幡宮に参詣した後、通法寺跡へ向かいました
通法寺跡に建つ門
通法寺跡に建つ門 (拡大)
門前の石碑
通法寺跡
通法寺跡に建つ鐘楼
通法寺跡にある源氏館跡の説明版
これより、源氏三代の墓にお参りします。
源氏三代の墓(源頼信・頼義・義家)は、河内源氏の里、通法寺付近にある。頼信は、河内守に任官後この地に邸宅を構え、数々の戦乱を平定し、余生をここで過ごしたが永承3年(1048年) に死去しその遺言により通法寺の「巽」(東南)の方角に葬られた。頼義の墓は通法寺旧本堂址にあり、永保2年(1082年) 79歳で死去し、遺言により本堂の床下に葬られたが、後に現在の位置に移された。義家の墓は、通法寺の南東の丘陵上にある小高い円丘である。嘉承元年(1106年) 7月、京都の邸宅で死去し、ここに葬られたという。 (説明板より)
源頼信の墓
源頼信の墓 (拡大)
源頼信は、清和源氏の家系である満仲の三男として生まれた。二十歳のとき中央官界に身を置き、藤原道兼や道長に仕えた。特に、長元元年 (1028) に勃発した平忠常の乱の際には、追討使平直方にかかわり反乱を鎮圧した。この乱を鎮圧したことによって、頼信は武家の棟梁としての確固たる地位を獲得した。
また、上野・常陸・石見・伊勢・美濃などの国司を歴任しており、最後に河内国司となる。その時、河内国古市郡壷井里 (現壷井・通法寺) に本拠地を構え、河内源氏をひらくもとになった。
長久四年 (1043) には、子の頼義とともに観音堂 (のちの通法寺) を建立したと伝えられ、代々河内源氏の氏寺として信仰された。
永承三年 (1048) 、八十一歳の時この地で死去し、遺言により通法寺の「巽」(東南) の方角の丘陵上に葬られた。(説明板より)
源頼義の墓
源頼義の墓 (拡大)
源頼義は、父頼信、母修理命婦の長男として生まれた。平忠常の乱の際、父を助け乱の鎮圧に貢献し、はやくからその武勇を東国武士に知らしめていた。
永承六年 (1051) 「浮囚の長」である安倍頼良 (のち頼時)が反乱をおこした際、乱の鎮圧にあたった。一旦は頼時を従わせたが、その後頼時とその子貞任がふたたび謀反をおこしたため、出羽豪族清原の援を得て、康平五年 (1062) ようやく乱を平定した (前九年の役)。また頼義は前九年の役の出陣に際して、石清水八幡宮に参詣して戦勝を祈願し、その戦功をあげることができたので、その感謝の意味をこめてこの地に八幡神を勧請し、通法寺の北側に壷井八幡宮を建立、源氏の氏神とした。
承保二年 (1075) 七月十三日、八十八歳でその生涯を閉じ、通法寺境内に葬られたといわれている。 (説明板より)
源義家の墓
源義家の墓 (拡大)
源義家は父頼義、母平直方の女の長男として生まれた。七歳の時、石清水八幡宮で元服し、八幡太郎と名乗った。前九年の役 (1051~62) の際、頼義に従い反乱を鎮圧し、武将の名声を高めた。
永保三年 (1083) には出羽貴族清原の内紛が起こるが、寛治元年 (1087) その鎮圧に成功し、武将としての地位は不動のものになった。(後三年の役)
この功績から、百姓が土地を寄進しはじめ、寛治六年 (1092) には、朝廷から土地の寄進を禁止されるまでになった。
また、永徳二年 (1098) 、武将で初めて院への昇殿 (殿上人) を許された。
晩年、康和三年 (1101) 七月、次男対馬守義親が反乱、また、三男の義国が嘉承元年 (1106) 六月に事件をおこすなど、義家の中央官界での地位が危ないものになっていった。
最後は嘉承元年 (1106) 七月、京の邸宅で死去し、この地に葬られた。(説明板より)
この後、太子町の叡福寺の聖徳太子のお墓にお参りし、竹内街道を通って出発点の近鉄上ノ太子駅まで歩きました。










































































































しばらくすると、わずかな間、太陽が顔を出してくれました

































































































