今回の山形県旅行の初日の夕方、「鼠ヶ関」から日本海に沈む夕日を観、三日目の朝には、「蔵王温泉」裏山の紅葉を観に行きました。
しかし、残念ながら、夕日は雲がかかり、紅葉は見頃を過ぎていました。
今年の東北地方の紅葉は例年に比べて、一週間以上早かったとの事です。
 
 
イメージ 1
「鼠ヶ関」から見る「粟島」と夕日
 
イメージ 2
「鼠ヶ関」の灯台
 
イメージ 3 
イメージ 4
蔵王温泉スキー場のロープウエイからの景色
 
イメージ 5 
イメージ 6 
イメージ 30   
  
イメージ 7 
イメージ 8 
イメージ 9 
イメージ 10
 
イメージ 11 
イメージ 12 
 
イメージ 13 
 
イメージ 14 
 
イメージ 15 
 
イメージ 16 
イメージ 17 
イメージ 18 
 
イメージ 19
又兵衛平
 
イメージ 20 
 
イメージ 21
ここにも、たくさんの「池塘」が点在していました。
 
イメージ 22
 
イメージ 23 
 
イメージ 24
ナナカマド
 
イメージ 25
観松平
 
イメージ 26 
 
イメージ 27 
イメージ 28
下りのリフトからの光景
 
イメージ 29 
イメージ 31

 
このミニ旅行二日目の宿泊地は「蔵王温泉」でしたが、その途中、「銀山温泉」旅館街を観光しました。
ガス灯に照らされる"大正ロマンあふれる銀山温泉" には、少し時間が早すぎました。
 
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 3
坑道入口
坑道を見学したかったのですが、残念ながら時間がありませんでした。これは、ガイドさんの写真を撮影させてもらったものです。(^-^;
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
イメージ 6
 
イメージ 10
 

イメージ 7

 
イメージ 8
 

イメージ 9

 
イメージ 11
 
イメージ 12
 
イメージ 13
 
イメージ 14
 
イメージ 15
 
イメージ 16
 
イメージ 17
 
イメージ 18
 
イメージ 19
 
イメージ 20
 
イメージ 21
 
イメージ 22
 
イメージ 23
 
イメージ 24
 
 
月山「弥陀ヶ原」のハイキングの次に、羽黒山を参詣しました。
 
羽黒山は出羽三山 (月山・羽黒山・湯殿山) の一つで推古天皇元年(593年)の開山とされ、修験道の聖地として古くから知られています。
 
羽黒山には、月山・羽黒山・湯殿山の三神社を同時に参詣する事が出来る「三神合祭殿」 があります。
これは、冬期に深い積雪で月山神社と湯殿山神社には参詣出来なくなるため、冬でも参詣出来る羽黒山にもこの二神がお祭りされているとの事です。
 
また、羽黒山参道「一の坂」のぼり口にある「五重塔」は、東北地方最古の塔で、創建は平将門(903年~940年)と伝えられ、現在の塔は南北朝時代の1372年に再建されたものとの事です。
 
 
イメージ 1
 
イメージ 2
随神門
 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
イメージ 6
祓川に架かる「神橋」
 
イメージ 32

須賀の滝

 

イメージ 7
「相生の杉」の一つの爺杉
並んでたっていた婆杉は、明治35年に暴風で失われたとの事です。

 

イメージ 23
 
イメージ 8
国宝の五重塔は運よく特別拝観の期間中で、心柱など塔の内部を拝見する事が出来ました。(塔の内部は撮影禁止でした)
 
イメージ 9
 
イメージ 10
 
イメージ 11
 
イメージ 12
 
イメージ 13
 
イメージ 14
 
イメージ 15
 
イメージ 16
 
イメージ 17
 
イメージ 18
 
イメージ 19
 
イメージ 20
 
イメージ 21
 
イメージ 22
杮葺 (こけらぶき) の屋根
 
イメージ 24
 
イメージ 25
松尾芭蕉の像
 
イメージ 26
 
イメージ 27
三神合祭殿
羽黒神社‥‥伊氏波神(いではのかみ)・稲倉魂命(うがのみたまのみこと)
月山神社‥‥月読命(つきよみのみこと)
湯殿山神社‥‥大山祗命(おおやまづみのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)

 

 
イメージ 28
 
イメージ 30
 
イメージ 33
 
イメージ 29
 
イメージ 31
「三の坂」 (石段最上部から撮影)
「一の坂」「二の坂」「三の坂」、全部で 2,446段あるそうです。
 
 
10月9日~11日、ツアー旅行で山形県へ行って来ました。
この旅行の主たる目的は、羽黒山の「国宝五重塔」 の拝観と、月山の「草紅葉」を観る事でした。
 
行程

10月9日

 大阪 → 金沢 → 上越妙高 → 鼠ヶ関 → あつみ温泉
10月10日
 あつみ温泉 → 月山弥陀ヶ原 → 羽黒山(五重塔・三神合祭殿etc) →
 銀山温泉街 → 蔵王温泉
10月11日
  蔵王温泉 → ロープウェイとリフトで山上へ → 湿原散策 →
 上越妙高 → 金沢 → 大阪
 
月山弥陀ヶ原の「草紅葉」
月山弥陀ヶ原には今年の7月にも訪れ、ニッコウキスゲなどの花に大変感動しました。この時、ガイドさんから弥陀ヶ原の「草紅葉」も見事だと聞いていましたので、今回の旅行でもそれを楽しみにしていました。
 
↓ 7月の「弥陀ヶ原」
 
 
イメージ 1
月山八合目までのバスから見た光景
 
イメージ 2
同じくバスの車窓から見た光景
写真の上部の平野は、「庄内平野」です。
 
月山八合目に到着しました。。
 
イメージ 3
月山八合目の駐車場から、月山頂上方向を観た眺め
 
イメージ 4
軽くストレッチ体操をして木道に入りました。
眼下に「庄内平野」が見えています。
 
イメージ 5
「草紅葉」の一番きれいだったのは、一週間くらい前だったそうですが、それでも十分楽しめました。
 
イメージ 6
真っ赤な「ナナカマド」の実
 
イメージ 7
池塘
 
イメージ 8
 
イメージ 9
 
イメージ 10
 
イメージ 11
 
イメージ 12
 
イメージ 13
 
イメージ 31
綺麗だったニッコウキスゲの花の今の姿
 
イメージ 14
 
イメージ 15
 
イメージ 16
 
イメージ 17
 
イメージ 18
 
イメージ 19
 
イメージ 20
 
イメージ 21
 
イメージ 22
 
イメージ 23
 
イメージ 24
 
イメージ 25
 
イメージ 26
 
イメージ 27
枯れシシウド
 
イメージ 28
 
イメージ 29
 
イメージ 30
 
 
愛知県旅行では名古屋城・岡崎城・豊川稲荷の他、熱田神宮・明治村・蒲郡竹島なの参詣・見学もしました。
 
 
イメージ 1
熱田神宮      御神体は「草薙神剣 (くさなぎのみつるぎ 天叢雲剣) です。
草薙神剣とは八岐大蛇の尾から出てきた太刀で、正式名称は天叢雲剣といいます。皇位継承の印である三種の神器のひとつとして日本武尊に授けられました。日本武尊が賊によって焼き殺されそうになったとき、神剣が、草を薙ぎ倒して事なきを得たことから「草薙神剣」と呼ばれるようになりました。日本武尊はこの草薙神剣を現在の名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県で没しました。妃の宮簀媛命熱田の地に御鎮座したことが、熱田神宮の創祀であるとされています。
愛知県の公式観光ガイド(https://www.aichi-now.jp/spots/detail/10/)より
 
イメージ 2
熱田神宮宝物館
 
イメージ 3
宝物館の「太郎太刀」
「姉川の戦い」(1570)で、朝倉氏の家臣である真柄直隆(まがらなおたか) が使ったとされる大太刀で、長さは5尺3寸(約1m60cm) もあるそうです。

 

イメージ 4
イメージ 5
明治村入口の門 (使用はされていません)
もと、名古屋の「旧制第八高等学校」の正門です。

 

イメージ 6
聖ヨハネ教会堂
プロテスタントの一派日本聖公会の「京都五條教会」で、京都の河原町通りにありました。

 

イメージ 7

 
イメージ 8
森鴎外・夏目漱石住宅

 

イメージ 9

 
イメージ 10
北里研究所本館・医学館
 

イメージ 11

 
イメージ 12
幸田露伴住宅 「蝸牛庵」
 
イメージ 13
 
イメージ 14
品川灯台
 
イメージ 15
 
イメージ 16
 
イメージ 17
 
イメージ 18
蒲郡竹島
 
イメージ 19
竹島への橋のたもと近くに立つ「藤原俊成」の像
藤原俊成は、竹島の「八百富神社」を創建されたと伝えられています。藤原定家の御父上です。
 
イメージ 20
蒲郡竹島
 
イメージ 21
 
イメージ 23
八百富神社
安徳天皇の養和元年(1181年)に、藤原俊成卿によって創建されたと伝えられています。 御祭神は市杵島姫命で、開運・安産・縁結の神として、古くより広く世に知られております。 三河雀という書物には、江の島・竹生島・厳島と共に、日本七弁天の中に挙げられています。
                (八百富神社公式HPより   http://www.yaotomi.net/about/ )
 
イメージ 22
 
イメージ 24
 
イメージ 25
 
イメージ 26
 
イメージ 27
 
イメージ 28
 
イメージ 29
 
イメージ 30
蒲郡クラシックホテル(上の建物)
「海辺の文学記念館」 (下の建物)
 
イメージ 33
今から約8年前の2010年10月に蒲郡を訪れた時、「蒲郡クラシックホテル」の旧称「蒲郡プリンスホテル」から見た「竹島」
 
イメージ 31 
木下恵介の歌碑
「竹島の 橋の長さが悲しくて 母の思い出 吾もその年」  恵介

         イメージ 32
 
岡崎城見学の後、豊川稲荷にお参りしました。
 
稲荷神は稲に代表される穀物をつかさどる神 (農耕の神) で、「稲成り」の表記から稲を荷う姿から「稲荷」になったとの事です。
そして、今では商工業をも含めたすべての産業の神として信仰されるようになっているそうです。
 
また、日本に仏教が伝来すると、日本古来の神道の神と仏教の仏が交じり合うようになり (神仏混淆)、稲荷神と仏教の荼()枳尼天 (だきにてん) が同一視されるようになりました。
それで、稲荷は仏教寺院でも祀られるようになりましたが、その寺院の一つがこの「豊川稲荷」です。
「豊川稲荷」の寺院名は「豊川閣妙厳寺」といい、禅宗 (曹洞宗=本山は永平寺) の寺院で、ご本尊は「千手観世音菩薩様」、そして鎮守として「豊川稲荷」として親しまれている 「豊川枳尼真天」 がお祀りされています。
 
なお、日本五大稲荷とは、豊川稲荷のガイドさんによれば、京都の「伏見稲荷大社」・ここ愛知県の「豊川稲荷」・岡山県の「最上稲荷」・茨城県の「笠間稲荷神社」・佐賀県の「祐徳稲荷神社」で、このうち「豊川稲荷」と「最上稲荷」は寺院であり、他は神社との事でした。
しかし、三大稲荷や五大稲荷は地域により違いがあり、また、各地の神社がそれぞれ自称していて定説はないようです。
 
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 3
総門
 
イメージ 4
 
イメージ 5
鎮守堂
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
イメージ 8
 
イメージ 9
本殿
 
イメージ 10
 
イメージ 11
禅堂
 
イメージ 12
 
イメージ 13
この右方向に「霊狐塚」があります。
 
イメージ 14
 
イメージ 16
 

イメージ 15

狐塚の両脇には、無数の狐が並んでいました。
 
イメージ 17
奥の院
 
イメージ 18
奥の院の竜の彫刻
 
イメージ 19
 
イメージ 20
 
イメージ 21
山門(裏側)
 
イメージ 22
山門(表)
 
 
このツアー二日目、徳川家康が生まれた岡崎城を見学しました。
 
岡崎城は、西郷頼嗣が15世紀前半に明大寺の地に築いた城がその起源です。
その後、享禄4年(1531年)に松平清康 (家康の祖父) が、矢作川菅生川 (乙川) の合流点である龍頭山の丘陵に城を築き、ここが岡崎城とよばれるようになりました。
徳川家康は、天文11年(1542年)12月26日に、ここ岡崎城内の坂谷邸で誕生しました。
家康は6歳で織田信秀 (信長の父) の人質に、さらに8歳で今川義元の人質となりましたが、「桶狭間の戦い」で今川義元が戦死したことにより19歳で自立しました。
家康は元亀元年 (1570年)に 本拠を遠江浜松に移し、嫡男である信康を岡崎城城主としました。しかし、天正7年 (1579年)に信康が舅にあたる信長の要求(武田に内通したとの疑い)により (信康の処断を家康に任せたとの説の他、諸説あるようです) 自刃、その後は、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代としました。
天正18年 (1590) 、秀吉の家臣である田中吉政が城主となると、城を拡張し、強固な石垣や城壁などを用いた近代城郭に整備しました。
その後、家康が江戸幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせました。
 
明治6年、廃城令により城は取り壊されましたが、昭和34年に鉄筋コンクリート造りで天守が再建され、現在にいたっています。
 
 
イメージ 1
矢作川や乙川が、城の防備のの役割をはたしていました。
 
イメージ 2
現在の岡崎城内の略図
 
イメージ 3
大手門
 
イメージ 4
 
イメージ 5
からくり時計
定められた時刻になると、家康が出てきて能を舞います。
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
イメージ 8
途中で翁の面をつけた姿になりました。
 
イメージ 10
徳川家康像
 
イメージ 11
松平元康 (徳川家康) 像
 
イメージ 9
本多忠勝像
 
イメージ 12
 
イメージ 13
 
イメージ 14
 
イメージ 15
東照公産湯井戸
 
イメージ 16
家康が誕生した「坂谷邸址」
 
イメージ 17
坂谷門址
 
イメージ 18
東照公えな塚 (家康の「えな」(へその緒や胎盤)を埋めた塚)
 
イメージ 19
 
イメージ 20
天守閣
 
イメージ 21
家康の遺訓
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つことばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
 
イメージ 22
 
イメージ 23
天守閣から見る東方向の景色
 
イメージ 24
 
イメージ 25
天守閣から見る南方向の景色
 
イメージ 26
 
イメージ 27
天守閣から見る西方向の景色
 
イメージ 28
 
イメージ 29
天守閣から見る北方向の景色
 
イメージ 30
 
イメージ 31
天守閣にかけられていた「岡崎城略史」
 
イメージ 32
天守閣の入口を入って、振り返って撮影
 
イメージ 33
神橋と龍城堀
 
イメージ 34
 
イメージ 35
 
イメージ 36
 
イメージ 37
 
 
名古屋城築城
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の勝利を経て江戸幕府を開いた徳川家康は、大坂城の豊臣秀頼との武力衝突に備えて、城の整備を進めました。
慶長6年(1601年)の膳所城に始まり、加納城、二条城、伏見城、江戸城、彦根城、駿府城、篠山城、丹波亀山城などの築城・拡張を行ないました。これらの多くは、秀吉恩顧の外様大名を動員した天下普請の城です。
また、姫路城、伊賀上野城、桑名城などは家康の命令を受けた城主により大規模な拡張が行われました。
これらの城が、大坂城包囲網を形成していきました。
 
徳川家康は、豊臣がたとの緊張が高まる中、尾張国を東海道の一大防衛線として整備を進めました。
まず、慶長13年(1608年)に家康が伊那忠次に命じて木曽川東岸に約50キロメートルにわたり築いた堤防「御囲堤」は、尾張領内の治水だけでなく、大坂から攻め寄せる敵に備える防塁となるものでした。
次いで、尾張国の中心である清須城が問題となりました。清須城は大軍を収容できる規模がなく、五条川に臨む低地にあるため、しばしば水害にも見舞われていました。
このため、家康は清須城に代わる新城造営地を調査し、名古屋(那古野)、古渡、小牧の三候補地の中から名古屋を選びました。そして、慶長14年(1609年)11月16日に駿府において家康は名古屋新城の築城・名古屋遷府を正式に発令 しました。これを受けて名古屋では早速、工事の位置決めである縄張りが始まりました。
名古屋城を築く場所は、名古屋台地の西北端で、台地の西面と北面は高さ10メートルの断崖になっていました。そして、断崖の下には泥沼が広がり、その向こうには庄内川、そして木曽三川が流れる天然の要害でした。
一方、南と東には大規模な城下町の建設が可能な広がりがあり、その先は東海道と熱田湊となっています。名古屋城築城は、軍事面だけでなく文化や交易の栄える新しい都市の誕生を予感させるものでした。
年が明けて、慶長15年(1610年)1月14日、将軍徳川秀忠が、西国の20大名に名古屋城普請(土木工事)の助役を命じました。
かくして、江戸幕府が体制を確立する激動の時代に、濃尾平野を見晴るかす高台に忽然と巨大な城郭が誕生しました。(天守完成は1612年)
 (名古屋城公式ウェブサイトより   www.nagoyajo.city.nagoya.jp/)
 
名古屋城の主要部分は、太平洋戦争末期の昭和20年5月の空襲により焼失しましたが、昭和34年に天守が再建され現在にいたっています。
しかし、耐震性の問題から現在は入場禁止となっており、木造による天守閣再建の計画がすすめられているとの事です。
 
 
イメージ 1
現在の名古屋城内

 

イメージ 2

 
イメージ 21金シャチ横丁
 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
イメージ 8
 
イメージ 9
 
イメージ 10
 
イメージ 11
 
イメージ 12
 
イメージ 13
 
イメージ 14
 
イメージ 15
 
イメージ 16
 
イメージ 17
 
イメージ 18
 
イメージ 19
 
イメージ 20
実物大の金鯱レプリカ
 

 

9月12日~13日、名古屋城や岡崎城 などをめぐるツアーに参加しました。

 

旅程
 12日‥‥なんばパークス → 明治村 → 熱田神宮 → 名古屋城
 13日‥‥岡崎城 → 八丁味噌の郷 → 豊川稲荷 → 蒲郡竹島 → なんばパークス
 
名古屋城 は明治維新後も壊されず天守や本丸御殿などが保存されましたが、太平洋戦争末期の名古屋空襲(1945.5)により、天守・本丸御殿・東北隅櫓・正門・金鯱などが焼失してしまいました。
しかし、空襲前に別の場所に保管されていた障壁画や沢山の写真などを元に、平成21年から 本丸御殿の復元 が始まり、平成30年6月、復元された本丸御殿の一般公開が開始されました。
 
ちなみに 天守 は昭和34年に鉄筋コンクリート造りで再建され、復元された 金鯱 とともに名古屋のシンボルとなりましたが、今年の5月に耐震性が不十分との事で天守への入場は禁止されました。
 
 
イメージ 36
 
イメージ 1
パンフレットより
 
イメージ 2
本丸御殿
 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
イメージ 8
 
イメージ 9
 
イメージ 10
 
イメージ 11
 
イメージ 12
 
イメージ 34
 
イメージ 13
 
イメージ 14
 
イメージ 15
 
イメージ 16
 
イメージ 17
 
イメージ 33
 
イメージ 18
 
イメージ 19
 
イメージ 20
 
イメージ 21
 
イメージ 22
 
イメージ 23
 
イメージ 24
 
イメージ 25
湯殿
 
イメージ 26
 
イメージ 27
 
イメージ 28
釘隠
 
イメージ 29
 
イメージ 30
 
イメージ 35
 
イメージ 31
 
イメージ 32

 
 
隠岐には、日本列島が、元はユーラシア大陸の東端の一部」 であった事を証明する岩石があります。
それは 「片麻岩」 とよばれる岩石で、地下深い所で高温高圧によりつくられた変成岩の一種です。
 
「隠岐片麻岩」 がつくられたのは、約2億5千万年前で、その兄弟とも言える「飛騨片麻岩」とともに 「日本で最も古い岩石」 とされています。
しかも、その元となった原石は、なんと30億年も前に出来たものとの事で驚きました。(地球の誕生は約46億年前です)
 
片麻岩は普通、生まれた地下十数~二十数キロメートルの深い場所にあり、地表に現れる事はめったにありませんが、隠岐片麻岩と飛騨片麻岩は山腹に露出しており、この事でも珍しいとされています。
 
 
イメージ 1
隠岐片麻岩
 
イメージ 2
「玉若酢命神社」 の参道に、「隠岐片麻岩」の欠片が玉砂利代わりに使われていました。(ガイドさんの説明)
 
イメージ 3
また、「玉若酢命神社」の説明板を支える脚も、研磨された「隠岐片麻岩」がつかわれていました。(ガイドさんの説明)
 
イメージ 4
 
イメージ 5
もともと日本列島は、ユーラシア大陸にくっついていました。 (図の①)
それが、「隠岐片麻岩」・「飛騨片麻岩」がつくられた2億5千万年前頃、地殻変動で、大陸から引き離され始めました。
引き離された日本列島と大陸との間の窪地に水が溜まって湖となり、やがて外から海水が入り込んで「日本海」 が形成されました。
そして、逆「く」の字形の日本列島 (図の②) の時代を経て、対馬海峡が出来て朝鮮半島からも離れ、今の日本列島の形となりました。
 
日本列島がユーラシア大陸の一部であった事は、「隠岐片麻岩」・「飛騨片麻岩」と同質の片麻岩が、朝鮮半島北部 と極東ロシア領の沿海州でも発見された事で証明されました。
 
次は、「流紋岩」 です。
 
イメージ 6
二日目の早朝散策した「遊歩道」 (写真右半分の山のふもとの波打ち際)
 
イメージ 7
遊歩道に設置されていた「説明板」
黄色の丸印の半島の東側が、遊歩道です。
この遊歩道脇には、粘り気の強い溶岩が地表近くで急速に冷えて出来た 「流紋岩」 がたくさん見られました。
溶岩の中の異なる成分が縞模様となって、うねっています。溶岩が流れた様子がよく分かります。
隠岐で火山活動がさかんになったのは、約550万年前 (約50万年前には終焉) の事で、今ではその痕跡をかすかに留めているにすぎません。
 
 
イメージ 8
 
イメージ 9
 
イメージ 10
 
イメージ 11
 
イメージ 12
 
イメージ 13
 
イメージ 14
比較的柔らかな部分が、波の浸食を受けてこうなったのでしょうか。