「Girl」と言う映画。トランスジェンダーの為のこれまでに無いエール。 | まりのブログ

まりのブログ

性同一性障害者の私が、思いのままに生きるために頑張って生きてます。
性別適合手術をしてから2年になりました。
私はトランスジェンダーとして誇りを持って生きてます

☆先日、目を痛めてしまいました。物もらい?目の下が腫れ上がり、痛みがあります。開きが悪く、常に落ち着きません。
そのせいで乱文かもしれませんし、更にこの映画、特に想い著しく、感傷的になってしまいました。
それでも、宜しければ、映画ライフの参考にしていただければ嬉しいです。

とうとう来ました。トランスジェンダー悲願の、新しい夜明けに向けた本当の第一歩。
「Girl」
ララは弟と父と仲睦まじく暮らしている。彼等は引っ越しをし、新しい環境に慣れず、家族の絆こそが日々を明るくしているようだ。
父は恋人が居るらしい。弟は慣れない新しい学校に悩みを抱えている。
そして、ララはバレエの名門学校に入学し、人生を飛躍させようとしているが、自分自身に悩みを抱え、それがララを追い詰めていた。
ララは非常に美しい。いや、美女では無いが、とても愛らしく魅力を醸している。
母の居ない家で、母の役割をも担う、良く出来た娘。背は高くすらりとした体、細く長い腕、細く長い脚、ある程度筋肉質な体付き、ララはバレリーナとして秀でた素養を持ち備える。
しかし。ララは問題をその胸に秘めている。
それは...ララは心と体の性が違う、性同一性障害(Gid)を抱えた、遺伝子が男性の女性である。
この映画は、ひと言で言えば、"トランスジェンダー"の映画です。(ここでの"トランスジェンダー"はMale To Female、遺伝子男性の女性です)
トランスジェンダーの映画と言えば、最近の「ナチュラルウーマン」では、主人公が不倫の片割れであり、トランスジェンダーで無くても問題ある立場で、トランスジェンダーだからこそ更なる問題を突き付けられました。「彼は秘密の女ともだち」では、主人公のトランス的生きざまを、あくまでGidでは無く、成らざるを得なかった心の問題として描き、幸せ成るための"かたち"として描きました。そして、題材は同性愛ですが「Love、サイモン」ではゲイで有ること、そして隠した事で起こる友情の行方を描きました。
これらは、LGBTに纏わる様々な現実に、それ以外の世界との軋轢や複雑な関係を描いた作品でした。
そして今作は、まさに"ザ・トランスジェンダー"映画。
あまりにリアルなトランスジェンダーの有るがままが、100%曝されています。
まあ、何事も人それぞれ。しかし、私にはこれ以下にもこれ以上にも無いほど、このララこそ、私でした。
映画がもうひとつ描くのは、ララがバレエに挑む話。それもバレリーナとしてバレエ学校でその才を羽ばたかせようと努めている。
しかしララは、他の女性たちのように幼い頃からバレリーナとしての教育を受けて育たなかったので、ルルベ、パ、そしてピルエットをこなすには脚の筋力が足りない。
その難問はララを追い詰める。期待されることがまた、ララを追い詰める。
でも挫けてなるものか!
ララは必死で練習し、足を血塗れにし、涙と苦痛に喘ぐ日々を過ごす。
ささやかな親睦に心休めても、評価を貰えても、現実はララの背に刃を突き付ける。
「歩き続けないと、おしまいだぞ」
まるで「赤い靴」のよう。
無理は祟る。体は痩せ細り、心は折れる寸前、もう体の軸すら傾いてしまう。痛みに顔を歪め、それでもララは舞い、跳び...そして倒れてしまう。
もう戻れない。でも進めない。
ララの苦痛は絡み、縺れ、全てが彼女の手から摺り落ちてしまう。
そして、大事なステージから脱落する。
ララは常に人を伺っています。人が自分をどう見ているのだろうと不安でなりません。
その合間で、弟を学校に送った時、教師に「お姉さん」と言われ、心浮いて見せる。すれ違うだけの人達の視線にも不安に成り、でも、その視線の裏側に、ちょっと期待を込めてもしてしまったり...
でも、やはり残るのは、溜め息...
ララは学校に通いますが、彼女がGidである事を学校にも学生にも認知させています。
学生たちはそんなララに含みを持った笑みを浮かべながら、誰一人、ララを避けようとはしません。
これって、ベルギーならでは?素敵な事です。
しかし、そうは言え、"人とは、他の誰かを下に見て自らを保とうとするもの"、そう言うものは往々にして、いじめとして強いてくる。
...ある女性はララに男であることを曝させようとします。それは、ララ自らでさえも、何があろうと触れたくない、そこにある真実。
「あなた、いつも私達の裸を見ているじゃない。今度はあなたの番。見せたって平気よ、でしょ?」
トランスジェンダーは女性に興味が有る。自分の足りない"かたち"を産まれながらにして持つ"女性"に心から惹かれ、そして惚れている。"焦がれ"と言う思いで、非常に美しく神々しいその姿に"尊び"を捧げている。
なのに、人は時に残酷な悪戯心で、そんな思いを疚しさにすり替えて、何より辛いことを、しろと強いる。
人との縁、そして叶わぬ現実に晒されて、ララは心を潰す。
トランスジェンダーにとって、ただでさえ現実は厳しく辛い。でもそれでも"Gidと言う概念を知る今"は、皆、日々に幸せを見出だす事が出来るようになっている。ささやかな人との触れ合いに、何事も無い時の流れに、思わぬ言葉や気遣いに、友情に、愛情に...
しかし。確実に溜まるものがある。それがある日、突然に溢れる。
まだまだ見えていた未来が、突然、全て消え去ってしまう時が来る。
ララは、その時、静かに、ことを始める。

この映画には、トランスジェンダーの心のリアルが100%詰め込まれています。
トランスジェンダーによって口にされる十八番がある。それは「産まれながらにして女」である。きっとそうなのだろう。そうとしか思えない。しかし、本当のトランスジェンダーには男か女かでは無く、私なのである。その私には男の体は堪えられないものなのです。男性ホルモンによる性的衝動が一番耐え難い最たるものでしょうし、男性的とされる"もの"、そして"こと"、それがどうしても合わない、どうしても出来ないのです。
青では無く、赤。それが女の色?
トランスジェンダーが求めているのは、そんなものではない。
ララは親戚の集まりで、ふざけて場を盛り上げる男性たちのノリに全く乗れず、ただ微笑みを携えるしか出来ない。
しかし悲しいのは、ノリの良い音楽に跳び跳ね踊る女の子たちの中に入って、同じように身を任せて時を楽しむことも出来ない。したい。でも出来ない。冷めた目で見られたり、笑われたり、取り残されるような憐れに、たくさんの涙を流してきたから、身がすくんでしまう。
トランスジェンダーは孤独だ。未来は見えず、誰にも愛されず、常に怯えている。誰かの愛、中でも親の愛が助けてくれると思っていたし、いつまでも期待している、いや、懇願しているが、親は"私"を知ろうとはしてくれない。
ララの父もそうだった。父の示す理解は、ララにとって非常に大きな力だった筈だ。弟の存在も支えに成った事でしょう。
しかし多く、目に見えて、会話の中にこぼす程度の悲鳴は、誰にでも向き合え、癒せるもの。しかし、本当に癒して欲しいことは胸に潜んでいる。それに気付いて欲しい。
伝えれば良いのは分かってる。
でも...それを伝えたら、"今"を失う。家族の、翳る、歪む、その顔を見たくない...
私達は、そんなララの機敏な心の揺れと、隠しながら零れる心の揺らぎを目撃する。
それは、淡々とした映像の中に、ランタイムを掛けて丁寧に、幾度となく描かれる。賑わいの隅に、日常の陰に佇んでいるララは、常に抗えない虚しさに苛まれ、非常に切なく、時に痛ましく、私達に焼き付けられる。

そして、決断を迎える。
あれのせいだ。変われば変われる筈。
トランスジェンダーは必ずそう思う時が来る。

この映画は実話を基にしているそう。
だからか。こんなにも"トランスジェンダー"を捉え、真実に満ちている映画は初めてです。
この映画を観ていて、私にはある音が聞こえていました。私がずっと、生涯に渡って聞き続けて来た、現実の音。真実の音。
静けさの中に、聞こえる心の弦を弛く振動させているような音。常に不安定でひとつのかたちに成らず、いつも震え、留まることは無い。
...あなたにも聞こえるだろうか?
ララはいつも鏡を見る。その中の自分を確認するかのように何度も何度も覗き込む。そして、自分の体を映す...
"瑕"を見るように、
最後、ことの後...ララはまたガラスに映った自分を見る。それはふたつにブレている。
定まらない自分。永遠に私は女では無く、男でも無い。
それがトランスジェンダーと言うもの。

この映画に残念な点は有りません。非常に真を得ていて、素晴らしい作品でした。
ただ、あえて言うなら、弟の存在の希薄さはリアルに欠きます。ただ、あくまでララの映画なので、彼女が自分の心に向き合う事を躊躇わせたり遮らない為にも、仕方がなかった事だと思います。
そしてやはり「ナチュラルウーマン」にも言えた、ララの才能。見た目含めて良過ぎます。バレリーナ...無理をしなければ羨望の中で生きられます。多くのトランスジェンダーはそうは行かないもの...
...これは嫉妬かな?:p
そして、バレリーナを目指し、流れにまだ乗れていた頃、ララはホルモンの治療を始めます。ですが、リアルな話、ホルモンの治療を始めると、体の筋肉は脂肪に代わってしまうので、バレリーナに成るための重要な、筋肉と言う素養を失ってしまうことに成ります。
でも、この点は、作り手の意図した事かは分かりませんが、思い当たる事が有ります。
ララはバレリーナに成るにあたって、自分の"曖昧なもの"を一刻も早く取り除きたかったのかもしれません。"男のバレリーナ"では無く、まごうこと無き"バレリーナ、ララ"として舞台への第一歩を踏みたかったのかもしれません。
中盤以降、トランスジェンダーの方は皆、観ているのが辛いと思います。人によっては体調を崩し、観続けるのが出来ないかもしれません。そして、終盤の"こと"の顛末は、ホラーです。
恐怖に叫びます。きっと。
でも、それでも、ララのした事は、あなたの胸の奥、心の底の真実。でしょ?

この作品は、全てのトランスジェンダーにとって過去に無いほど素晴らしい映画と成った筈です。ただ、あまりに生々しく、辛い真実を全て描き出しました。
私は観て、言葉を失いました。そして、観終えてから心に感情が溢れました。凍り付いた心がゆっくり溶け出して、溢れる涙に濡れていました。
感動しました。本当に本当に心打たれ、私は言葉を失い、自らの計り知れない瑕を見つめ直しました。そして、大きな溜め息をひとつ。その後、止めどない感情を吐き出さずには居られませんでした。
...しっかり、母に犠牲に成って貰いました。:p
正直、これはまだ、トランスジェンダーの為の第一歩。いつまでもそこを越えないけれど、その、これ以上は要らない、"始まり"の素晴らしい完成形。
そして、もう次が始まっている。
幾つもの煌めきは世界に生まれている。日本にも、生まれているかもしれない。
期待を持って待っています。

主役を演じたビクトール・ポルスターさんはトランスジェンダーでは無く、ベルギーの俳優でありダンサーなんだそうです。
フランドル王立バレエ団出身なので、やはりバレエは素晴らしい。拙さまで演じた彼の才能には、共に素晴らしい演技を引き立てていました。
何より、美しいって凄い...惚れ惚れします。

カンヌ国際映画祭カメラドール受賞(新人監督賞)、最優秀演技賞受賞(ある視点部門)、国際批評家連盟賞受賞。
ゴールデングローブ賞外国語映画賞ノミネート。
アカデミー賞外国語映画賞ベルギー代表。
ヨーロッパ映画賞ディスカバリー賞受賞、作品賞・主演男優賞ノミネート。


☆今回は一作です。
今の私の心は、この映画が占めてしまいました。
繕っても仕方がない。私達はどう足掻いても、私を超えられない。でも、もしかしたら。
そんな"もしかしたら"を羨み、想い、眺めながら堪え忍ぶのなら、ひとつ、どうしてもこれだけはと言うものにくらい、手を伸ばしても良いかもしれない。
きっと、ひとつくらいなら。