★佐賀県の観光スポット★

 

 

 

 

千栗八幡宮から

次は、どこにいこっかなぁ。ニコ

 

 

 

Google先生を

チェック。

 

 

 

 

おっ

 

吉野ケ里歴史公園・・・

 

 

 

このすぐ近くに

吉野ケ里遺跡があるんじゃーーんっ!!

 

 

 

そっか

佐賀県にあったんだひらめき電球

 

 

 

 

って、何時代の遺跡だっけ?!笑

 

 

 

 

っというわけで

 

吉野ケ里遺跡 吉野ヶ里歴史公園 いってみましょーっ宇宙人

 

 

住所

佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843

 

地図はこちら

ひえぇっDASH!

 

 

めっちゃくちゃ

広いやんけーーー。

 

 

 

これ

全部行こうとしたら

 

半日かかるんでないかい・・・???

 

 

 

絶望

あらぁっ、意外!ゲートは、近代的。笑

どーもー

 

マスコットちゃんドキドキ

チケットゲット。宇宙人

 

 

 

前にね

青森県の三内丸山遺跡に行ったとき

 

 

ガイドさんに

案内いただいて

 

想像がむっくむく働いて

すっごく楽しかったの〜音譜

 

 

 

小学校の

勉強とは違うんだよ。

 

 

 

 

縄文人が

 

どうして

 

ここに、お墓をつくったのか

どうして、何キロも先の石をとってきて飾りものをつくったのか

どうして、ここに物を集めてすてたのか(埋葬したのか)

どうして、ここに巨大な建物をたてたのか

 

 

答えはなくても

見て、感じて、考えて、想像を膨らませて~。合格

 

 

 

ある意味

感性を刺激してくれる

 

パワースポット。笑

 

 

 

 

そんなわけで

 

今回、吉野ケ里遺跡でも

 

ガイドさんをお願いしたかったのですが・・・

 

 

今日はコロナの影響からか

ないらしいのぉ~

 

 

 

がびびーーーん。笑い泣き

 

吉野ヶ里遺跡は日本最大の遺跡。

 

 

弥生時代(紀元前5世紀から紀元後3世紀までの700年)

 

稲作の文化が始まった

日本の文化の原点で

 

魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国」を彷彿させる

 

 

 

ということで

 

 

こんだけ

ゾーンがあるみたい。

 

 

 

 

 

とりあえず

 

めぐってみまーす。ぶーぶー音譜

 

鳥居みたいな入り口に・・・

 

 

おや?目

ツンツン!

 

 

 

逆茂木

 

米作りが盛んになると

水や土地を奪い合うようになり

 

村の入口に

バリケードを築いた・・・。

 

 

 

えぇぇ〜

弥生時代から城みたいーーーっ!!ガーン

村を守る兵士もいて

正門と脇門があって

守っていたんだねぇ。

 

 

縄文時代とは

やっぱり全然違うなぁ・・・。

 

 

弥生時代から

江戸時代までの城の感じがあるのかぁ。

 

 

櫓門(やぐらもん)

 

 

兵士が出入りする人を

見張っている

 

というのが

こちらーっパー

 

 

めっちゃ人いるーーー!!

 

 

あそこの櫓から

狙われちゃう、狙い放題よ。笑

 

ひろーーーい。アップ

 

 

ここが

生活の場だったのかぁ。

 

 

 

この地面のは・・・

ろうそくを灯して

 

何かのイベントだね。

 

 

 

これがなかったら

本当に弥生時代にタイムスリップ。

 

 

 

まわり

 

なーんもないよーーー。馬

自然の光が神々しい。キラキラキラキラキラキラキラキラ

 

 

吉野ケ里遺跡

再現率すごい。ひらめき電球

 

中にはいってみると

 

弥生時代の生活をあらわす

人形がいたりして

 

意外とあったかい。

 

 

 

一泊ぐらい

弥生時代の家で

泊まってみるのもいいなぁ。笑ウシシ

 

 

ここだけ

パッとみたら

 

ほんと、弥生時代だ〜。笑キラキラキラキラキラキラ

あっちは・・・ぶーぶーDASH!DASH!

 

北内郭 北墳丘墓 中のムラ

 

祭りや政治の中心地

北の歴代の墓があるみたい。

~ ぶーぶー音譜

北内郭

 

祭りごとを司る最重要地区。

 

 

田植えや稲狩りの日取り

戦いや狩の祈りなど

重要事柄はここで決定されたと考えられ

 

指導者たちだけが出入りできた

神聖、特別な場所。

 

 

 

 

 

えぇぇっっ

 

 

 

指導者たちだけが

出入りできたって

 

しかも

祈りの種類まで

 

どーしてわかるのぉぉーーーーガーン

 

 

 

これは

 

丸山遺跡とは

全くちがう

 

疑問がいっぱいだぁぁー。

では、その最重要地区へ。

 

ぺこり。

いろんな種類の建物があったのねぇ。

 

 

弥生時代って

縄文とは

 

イメージ

もぅ、全く違う世界なのね・・・。

 

 

お米のパワーしゅごい。アップキラキラキラキラキラキラ

主祭殿

 

 

祭りごとを司る最重要施設

指導者たちが重要な事柄を話し合ったり

最高司祭者が祖先の霊に祈りを捧げる儀式などが執り行われていた。

 

発掘調査の成果や古代中国の事例などを参考に

高さ16.5mで復元している。

 

 

 

って

 

 

祖先の霊とかでてくるの!?

 

なんじゃーこりゃー。

すごい、弥生時代!!叫び

 

 

 

その

復元建物が

こちら!

でっかーーーーパーアップアップ

 

 

イメージ

三階建て

 

下、駐車場できるよ。笑

 

 

 

では、中へ。ぶーぶー音譜

 

さっ、再現すごーーー!!

 

 

村の会議・・・です。

巫女さん?!お祈り中・・・

最高司祭者(巫女 ふじょ)が、祖霊からお告げを授かるために、かずらを頭や身体にまき、手に小笹をもって、琴の音にあわせて神がかりしようとしています。

巫女の発するお告げを、聞き分け、伝える人が控えています。

鏡や玉、剣は、巫女が祖霊と甲信するために祭具です。

 

 

 

って

 

鏡、玉、剣って

三種の神器じゃないですかーーー叫びキラキラアップキラキラ

 

 

 

えっ

 

これって

祖霊と甲信するための

ものだったの?!

 

 

ひょーーーっ叫び

斎堂

 

まつりの時に身を清めたり

儀式に使う道具がおかれた施設

 

 

こちら。

高床住居

 

神聖な区間の中にあり、高床倉庫とは違ってほぼ正方形に近い形をしていることから、吉野ケ里の最高司祭者の住まいだったと考えられます。

最高司祭者は一般の人々の前にはほとんど姿を現さなかったと考えられており、まさしくプライベートな空間だったと思われます。

 

最高司祭者の生活空間

 

最高司祭者の性格上、外光を取り入れる窓はまく、昼間でも中で灯りをともしていたと考えられています。

古代中国や、少し後の時代の日本の文献、他の遺跡からの出土資料などを参考に再現されています。

 

 

 

 

最高司祭者・・・大変だねぇ・・・

 

光がだめ?なのかなぁ!?

東祭殿

 

東祭殿は、北内郭の中心線である夏至の日の出と当時の日の入りを結ぶ線上にあることから、季節ごとのまつりの儀式が行われた施設と考えられています。

また、何度も建て替えられた跡があることから、まつりなどが行われるたびに建て替えられたのかもしれません。

 

 

 

こここれって

これこそ

 

神社の社の原型でない?ラブ

 

 

弥生時代は

 

現代と、もう直結なんだぁ・・・。

 

さっ

 

ここからは

 

 

北墳丘墓 立柱 祀堂 墓道

 

 

王の墓、墓道、祖霊の宿る立柱

歴代の王の祖霊へお供えやお祈りを捧げる祀堂(しどう)。

 

吉野ケ里集落を築き上げた祖先の霊を大切に祀る神聖な区域と考えられます。

 

 

あっ

 

ここにきたら

エネルギーが

 

グッと変わった・・・

 

 

本当に、

お墓のような気。

 

 

これは、再現されたから、なお残された、というか

復活された、エネルギーなのかしら。

 

 

すごく・・・不思議・・・・。

 

 

復元の力って、すごいねぇ。

 

 

エネルギーも

整えたり、過去に戻せる、復元されるんだ。

甕棺墓列

 

弥生時代の北部九州だけにみられる特色的な甕棺(棺おけ)

 

墓列は600m

二列に埋葬された墓列と

丘陵の各所にたくさんの墓所が設けられている。

 

ここもぜーんぶお墓。

 

 

確かに

 

ぐる~~~~ぐる~~~

 

 

体に少し負担のかかる

霊的なエネルギー。

 

 

でも、これって、

弥生時代じゃない

霊もいるような気がする。笑

祀堂(しどう)

 

歴代の王の祖霊へお供えものを捧げて

祈りを行う処があって

あっ、あの柱が・・・

祖霊の宿る柱

 

北墳丘墓は、弥生時代の後半にはお墓ではなく

祖先の霊をまつる祭壇として人々の信仰の中心となります。

 

 

 

これ

 

諏訪大社の御柱~みたい~~~~アップ

 

 

 

おもしろい。

 

 

神社の要素が

弥生時代につまってるじゃん!!

ってわけで

 

北墳丘墓

 

2100年前

歴代の王の墓。

 

遺構面と甕棺は本物だって。

 

 

 

 

 

さっそく

失礼します・・・

 

 

 

わぁ、

 

 

写真をとるのは

申し訳ないので

撮らないけど・・・

 

 

中心が、お墓の遺跡。

 

 

今でいうと

ひょうたんに近い形の甕桶がゴロゴロ

 

 

 

ひびわれたものを

復元するって

 

 

この破片をみつけて

くっつけるって

 

気が遠い作業・・・。

 

死者に対する思い
とりわけ豪華な副葬品が出土した 1002号甕棺をモデルに、当時の棺の内部を傷元しています。 

北填丘墓では、このように内側が水銀朱で真っ赤に染まっている甕棺がいくつもみつかっています。 

中には埋葬された頭蓋骨や副葬品の銅剣にまで塗られたように朱が付着している例もありました。 

水銀失は、辰砂、朱砂、 科学的には硫化水銀という強い殺菌作用をもつ物質です。
これは、中国では古くから不老不死の象徴として珍重されていたもので、弥生時代の日本にも既にそうした思想が入っていた可能性が高いと考えられています。

魏志倭人伝には、 倭人は 「朱丹を以ってその身体に塗る」 習慣があったと記されています。
また、副葬品は生前の身分の証という意味だけでなく、その副葬品が表す地位をともなったまま墳丘墓に埋葬され、死後もなおその身分を保持して、 その社会を導くものと考えられていたようです。
※銅剣の鞘は、鳥栖市柚比本村遺跡出土の玉節漆鞘を参考に復元。

 

当時の思想や生死観 墓地から祭祀の対象に


弥生時代中期につくられた墳丘墓は、 のちに祭祀空間として扱われるようになります。 

弥生時代後期後半から終末期の吉野ヶ里の集落構造をみると、 一番北にある祖先の霊を祀る北墳丘墓と、 一番南にある暦に関する祭りを行っとされる祭壇とを結んだ線上に、 祀堂と北内郭内にある主祭殿(祭りの中心施設) とがきれいに並んでいる事がわかります。 

さらに南軸約 60キロ 先にいくと雲仙岳にあたります。 

当時の祭りの中心施設と考えられている主祭殿は、 この軸線上に建てられていることから、 北墳丘墓はクニの社会基盤を構成する重要な施設になっていたことがうかがえます。
また、 墳丘墓前には、 先祖の霊が宿る宗教的シンボルと考えられる立柱、 墓道、 祀堂 (お祈りの場所) が設けられていたことが分かっています。

墓道からは、 祭祀に使われた筒型器台や高杯などの祭祀用の土器が多数出土しており、この場所が吉野ヶ里の祭祀には特別な場所であったことがうかがえます。

ここで行われた祭事は、 祖霊の託宣 神託によって社会が導かれるという当時の精神生活を現した興味深い事象といえます。
※北内郭に関しては、この聖なる軸線の他、 その形が左右対称であり、その中心線が太陽の運行線 (夏至の日の出と冬至の日没を結ぶ線) に合っていると言われています。
 

 

 

す・・・すごい・・・叫び叫び叫び

 

 

 

亡くなった祖霊が託宣して

社会を導くって・・・

 

 

弥生時代から

祖霊信仰があったの?!

 

 

 

へぇぇぇぇぇーーーーひらめき電球ひらめき電球ひらめき電球ひらめき電球ひらめき電球

 

 

 

 

弥生時代に生きる人たちも

奇跡のような出来事があったのかなぁ。

 

 

 

 

あっ!

 

そのお告げは

 

私のおじいちゃん、おばあちゃん

助けてくれたの〜

 

みたいなことが

あったりしたのかも。笑

 

 

 

 

信仰とは違っても

 

奥底にある

祖霊、先祖を大事にする

 

みたいな

弥生時代の信仰も

 

私達のDNAに

残っているのかもしれないねぇ。キラキラ

 

っというわけで

 

 

 

吉野ケ里遺跡は

お墓がとても興味深かったーー!!

 

 

パワースポットとは違うけど

現代とつながる祖霊への信仰が驚きで。

 

 

弥生時代って

もぅ、現代の基盤、なんだねぇ。

 

 

 

あぁ、今度はガイドさんのご案内で

いつかきてみたいですっ。宇宙人キラキラ