★東京都のパワースポット★
2021年は
つづいても
牛つながり!
「散歩している時に
牛の像がある神社をみつけたんですよ~」
っと
話始めたのは
ゆるだんのディレクター
高野さん
「えぇ~牛?!行きたい~
そこ亀戸天神社から近い??」
「近いですよ~。タクシーですぐです。」
「いこいこ~~」
ってわけで
ゆるだんロケで
行ってきました。
名前も
牛!!(笑)
牛嶋神社です。
ご祭神
須佐之男命
天之穂日命(あめのほひのみこと)
貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)
住所
東京都墨田区向島1-4-5
03-3622-0973
振り返ると
スカイツリー!!
シンボル塔のように
見えてきた。(笑)
牛嶋神社へは~
隅田川にそってある公園
隅田公園を通っていきます~
隅田公園は、
水戸徳川邸内の池
遺構を利用して造られた庭園もあって
落ち着いた雰囲気。
大人の散歩公園という感じです。
そ~んな~
隅田公園の一角に
鎮座するのが・・・
牛嶋神社です。
牛嶋神社
貞観2(860)年に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀したと伝えられる本所の総鎮守。
関東大震災で焼失する前は墨堤常夜燈の東側にあった。
昭和7(1932)年に隅田堤の拡張により、現在の場所に再建された。
本殿の左右に、神牛が奉納されている他、建長3(1251)年には牛鬼が社中を走り回り、 落として行った牛玉を神宝としたという伝承も残る。
また境内には、江戸中期から後期の国学者·加藤千蔭の碑や江戸落語を中興したといわれる立川 (烏亭)焉馬(1743~1822)の「いそかすは 濡まし物と タ立のあとよりはる 堪忍の虹」の句碑などがある。
5年に一度の例大祭は、牛が引く鳳輦を中心に古式床しい祭列が、向島から両国に広がる氏子の町内を2日かけて巡り、本所
2丁目の若宮公園内にある御旅所で1泊する。
返礼の町神輿の宮入れは50基が連なる都内最大の連合渡御と
なる。
※葛飾北斎「須佐之男命厄神退治之図」
86歳の作といわれている。関東大間災で消失したが、モノクロ写真が残っている。
そして
由緒書には~
東都の鎮護 牛嶋神社
牛嶋神社は隅田川の東岸、もと水戸徳川邸跡の、偶田公園に隣接して鎮座しています。
古くは向島須崎町にありましたが、関東大震災後、昭和のはじめ現在地に再建されました。
明治維新前は、本所表町の牛宝山明王院最勝寺が、別当とし
て管理していましたが、明治初年の神仏分離後「牛の御前」の社
名を牛嶋神社と改めました。
隅田川に沿う旧本所一帯の土地を昔「牛嶋」と呼び、その鎮守
として牛嶋神社と称したのです。
神社に伝わる縁起書によりますと、貞観二年(860年)に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀、後に天之穂日命をまつり、次いでこの地でなくなられた清和天皇の第七皇子貞辰親王命がまつられました。
牛嶋神社の御祭神は、この三柱の神々であります。
例祭日九月十五日は、貞観の昔はじめて祭祀を行なった日で
あるといわれております。
治承四年(1180年)源頼朝が大軍をひきいて、下総国から武蔵国に渡ろうとした時に、豪雨による洪水のために渡ることができず、武将千葉介平常胤が祈願し、神明の加護によって全軍無事に渡ることができましたので、頼朝はその神徳を尊信し、翌養和元年(1181年)に社殿を造営して、多くの神領を寄進させました。
さらに天文七年(1538年)六月には、後奈良院より「牛御前社」との勅号を賜ったといわれており、また、永禄十一年(1568)北条氏直が関東管領であった時、大道寺駿河守景秀が神領を寄進しております。
江戸時代には、鬼門守護の神社として将軍家の崇敬厚く、特に三代将軍家光から本所石原新町の土地の寄進を受け、祭礼渡御の旅所となりました。
現在の摂社若宮はその一部であります。
総桧権現造り、東都屈指の大社殿を誇る牛嶋神社は、氏子五
十町·牛島講の守護神として、崇敬尊信をいただいております。
神牛像にあえるっ
ではっ
ペコリ。
うっわぁぁ~
ぐるぐる~
ぐるぐる~
荒々しく吹き飛ばすような力。
バーーン
っと、押されたみたい。(笑)
銀杏、きれい~。
狛犬さん
よろしくお願いします。
みてみて
スカイツリーが
境内からも見えるよ。
さぁっ
境内に・・・
ああぁぁ~
いました
いらっしゃいました
テテテテッ
撫牛さーーん!
撫牛(なでうし)
撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。
自分の体の悪い部分をなで、 牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。
牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心く治るというご利益があると信じられています。
また、子どもが生まれたとき、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。
この牛の像は、文政8年(1825)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。
明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は『幼年時代』で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。
撫牛さん
ありがとう
ありがとう
じっくり答える
忍耐強そうなお力が
ぐ~る~ぐ~る~
2021年、主役ですね。
・・・って
先に
またまた
神牛にいってしまいましたが
わおぉ~
鳥居が三つ鳥居だよ~
あれ?
でも・・・
両サイドは
半分ずつの形
あわせて
2つ鳥居のようだけど・・・
島居について
社殿の正面にある鳥居は「三輪鳥居(みわとりい)」または「三ツ鳥居」といい、明神鳥居の両脇に小さい鳥居を持つ全国でも珍しい
つくりとなっています。
以前のものは、平成三十年の台風ニ十四号により倒壊してしまいましたが、氏子崇敬者の皆様の真心により令和元年五月に再建いたしました。
再建した鳥居は、主柱(樹齢百七十年の天然の吉野桧)をはじめ、全て国産の桧 が用いられております。
また、飾りの金物の取り付け以外では、釘を一本も使用しない伝統工法で製作されています。
牛島神社の社殿
神輿蔵は
墨田区登録有形文化財だって。
江戸・東京の農業 浮島の牛牧(うしまき)
文武天皇(701~704) の時代、現在の向島から両国辺にかけての牛島といわれた地域に、 国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわりの深い神社でした。
大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令(きゅうもくれい)が出され、平安時代までに全国に国営の牛馬を育てる牧場(官枚(かんまき))が39ヶ所と、 天皇の意思により32ヶ所の牧場 (勅旨牧)が設置され、この付近(本所)にも官枚の「浮嶋牛牧」 が置かれたと伝えられています。
時代は変わり江戸時代、「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増えることとなりました。
明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、本所区の太平町、緑町、林町、北二葉町と、本所でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。
とりわけ、現在の錦糸町駅前の伊藤左千夫「牛乳改良社」や寺島の「大倉牧場」は良く知られています。
なぁ~んと~
国営の
牧場があった土地って
もぅ、生粋の
牛とのご縁ある神社じゃないですか~~
では
三つ鳥居をくぐります。
ペコリッ。
神牛&狛犬さ~ん
テテテッ
こんにちは~
ぐるぐる~
クンクン
クンクン
わぁっ!(飛び掛かってくる)
い~きてる~~~~~
神様のお使い、いきていらっしゃいます~~~
うんうん
こんにちは。
こんにちは。
(きっと変な人・・・でもいいの・・・)
じぇひ
みなさまも、コンタクトを。
わあぁっ
すっごく立派な
総桧権現造り、東都屈指の大社殿
拝殿の中には
大きい
獅子舞?の頭
たくさんの提灯もあって
すべてが大振りな印象。
ぐる~ぐる~~
重厚、エネルギッシュな力
まさに、厄除けの力
という感じで
男の神様の力強さが
満ちているよ~。
彫刻もすてき。
反対側にも
獅子さんと・・・
ご神牛、獅子さんいらっしゃいました~
やっぱり
個性的だねぇ~
御魂が生きてる宿ってる。
牛のお守り
牛嶋神社は、貞観二年(八六○年)に須佐之男命(すさのおのみこと)が、郷土守護神としてまつられたのにはじまり、その後、天之穂日命(あめのほひのみこと)、次いで清和天皇の第七皇子の貞辰親王命|(さだときしんのうのみこと)を合わせておまつりしております。
古来より当社にかかわる伝説·縁起は数多ありますが、江戸時代初期に、境内に撫牛(なでうし)の石像がまつられて信仰をあつめ、十二年に一度の丑の年には、焼物の「牛のお守り」が作られるようになりました。
この「牛のお守り」は、それぞれの時代の人達の身近にあってその人達をお守りし、十二年毎に形を変えて敬愛され続けてきました。
さて来年は丑年、牛嶋神社では、来年のお正月を迎えるに当たり、新しい「牛のお守り」を奉製し、祈願をこめて、みなさまのご参拝をお待ちしております。
牛のお守り
ありましたよっ。
小梅稲荷神社
くるくる~
女性的な健やかな気で
ふぅ、力抜けます~。
そういえば
この神社は
女性的な神様の気を感じたのは
ここだけかも。
帰りにも
牛さん
みつけました。
・・・っというわけで
牛嶋神社は
たくさんの神牛に出会える神社です。
2021年
ぜひ、牛嶋神社におとずれて
健康、厄除けの力
さずかりましょう~。
~牛嶋神社~