★東京都のパワースポット★
さぁさぁっ
小野神社からの
つづき。
つっづいては~
車でちょっと移動。
自然の宝庫
京王百草園のお隣にあります
百草八幡宮です。
ご祭神
誉田別命
気長足姫命
武内宿禰
源義家
住所
東京都日野市百草867
私は車できたけれど
京王電鉄京王線 百草園駅からは
徒歩およそ13分ほど。
これが・・・
きゃぁ~
っと
悲鳴を上げちゃうくらい
ひっくり返りそうな
急坂を
車でグイグイ~ッと
上がって
鳥居からも
この石段です。
ちょっと
駅から歩いていかれる際には
心して訪れた方が良いかと
思われます・・・。(笑)
さてっ
気持ちを整えてっと。
百草八幡宮は、
百草村の鎮守神。
創建の年代は詳しく判らない中
社宝の石造狛犬に天平と書かれているため
古い社、なんだそう。
康平5年(1062)源頼義が宗任征討のために
必勝祈願し、再建した
建久3年、源頼朝は武運長久を祈願し
太刀一振の奉納があった
などなど
歴史があることは
わかっているみたい。
百草八幡宮は
古くは
古八幡宮、古富八幡宮とも
呼ばれていたそうだよ。
はぁぁぁ・・・
いい香り。
ふか~い
緑の香りなんだけど
どことなく
お線香、お香とか
薬草みたいな
安らぐ香りが届いてくる。
これって
お隣が
百草園だから??
特殊な
草花が生えているのかしら・・・????
心落ち着く
和の香り
気持ちが安定する
やさしい香りが
スーッと抜ける。
これだけで
ここに来られてよかった・・・。
ぐるぐる~
ぐるぐる~
グググ~ッと
強い力が押し寄せてくる
戦いの神様らしい
男性的なお力。
風でぬぐいさる
厄除けの力
何か打ち勝つ
必勝の力
太鼓の音みたいに
響いてくるご神気~強い~。
弱い心を
脱するために
宣言するにも
良さそうな所。
見た目は
神社だけど
仏教的な力が
今でもどことなく残っている・・・。
神仏習合時代は
真慈悲寺とご一緒だったみたいだけど
その名残・・・かな。
ちなみに
ご祭神の
誉田別尊は応神天皇、
八幡大神のことで
息長足姫命は神功皇后
応神天皇のお母さま。
勝負、厄除け、安産、子育ての神様です。
武内宿禰は神功皇后を支えた
健康長寿、厄除け、金運の神様
源義家は源頼義の長男。
神様方
強そうでしょ。(笑)
・・・って
私が気になったのは
この子たち~~~
みてみて
可愛い表情でしょ~。
天平寶字と書かれているけど
めちゃ新しい
狛犬さん。
天平寶字は
日本の元号の一つで
757年~765年までを指すらしい。
ユニークな愛らしい表情
子犬ちゃん
みたいですな。
祈願はたくさんあるけれど
主に・・・
必勝、厄除けが
ピンとくる
ご神気かな。
やっぱり
必勝祈願っ!!
さ~て
右手にある
鳥居の奥には
稲荷神社を中心に
秋葉山大権現
御嶽神社
もう一社
わからないなぁ・・・。
秋葉山大権現
趣あります。
後ろは
しいの木さん。
巨木。
しめ縄はついてないけど
ご神木級に立派だよ~。
そしてそして
どうみても
お社というより
お堂
といった建物!
・・・っと
思ったら
阿弥陀如来さまです~~
国指定重要文化財(彫刻) 銅造阿弥陀如来坐像
大正3年(1914)4月17日指定
青銅で鋳造された座高40.7cmの阿弥陀如来坐像は、 素朴な表現の中にカ強さや親しみやすさを感じさせる鎌倉時代の優品である。
背面には造立の由緒を伝える銘文が刻まれている。
それによると、建長2年(1250)、武州多西郡吉冨郷真慈悲寺の僧慶祐が、施主源氏一門の願いをうけて、天皇をはじめ幕府執権や地域支配者の安穏泰平、子孫の平安を祈り造立した。
真慈悲寺は鎌倉時代に、この百草の地に存在したことが推定されている大寺院である。
この寺が廃絶したあとも、百草八幡神社の八幡神の本来の姿を示す仏像として、この地に伝えられてきた。
年に一度9月の祭礼に合わせて公開されている。
阿弥陀如来は西方極楽浄土におられる
極楽浄土に導いてくださる仏様。
八幡様は
神仏習合時代
八幡大菩薩と呼ばれ
本地垂迹では
阿弥陀如来が八幡神の本地仏とも
呼ばれた時もあったから
阿弥陀さまと八幡さまは
とっても関係が深いんだね。
松連禅寺之碑
うむ・・・
解説の案内板
歴史が書いてあるから
ちょっと
がんばって
ざっくり書くね。
↓
文政13年(1830)に松連寺八代住職魯庵によって建立されたもの。
松連寺は明治6年(1873)に廃寺となり、百草出身の横浜貿易商青木角蔵翁が買い取り、明治20年に百草園として公開した。
この地に天平年中に道慈により建立された寺があり、鎌倉幕府を聞いた源頼朝の先祖の頼義、義家が、奥州の前九年、後三年の役に際して祈願し、戦勝後、伽藍坊門を建てた。
昔は五百石の祭田があったが、名前のみが残る。
新田義貞が北条氏を討った分倍河原の戦で、寺は焼失したが、年を経て慶長年中に新たに庵を造り、海印を庵主とした。
後に黄檗派瑞聖寺の末寺となり、光鑑を主僧、慧極を中興開士とし、北宗、無文、悅門、関捩、自穏、祖門、魯庵と八代続く。
小田原城主六代大久保忠増の室、寿昌尼は、,慧極、北宗とともに、慈岳山松連寺を建立した。
寺宝には源義家の木像や軍器をはじめ、真慈悲寺と背銘のある阿弥陀仏など多数ある。
魯庵の頃には寺は衰微していたため、 松連寺十八景を新たに作り、宝物を展観し昔の歴史を広く知らせた。
この魯庵を当地の代官中村八大夫知剛が助け、殿堂を修繕し、この碑の費も負担した、とある。
江戸時代初期には、枡(増)井山松連寺に源義家に関わる寺宝や、真慈悲寺と背銘のある阿弥陀仏等が相伝していたが、享保二年 〔一七一七)に慈岳山松連寺に引き継がれた。
松連寺を別当としていた百草八幡神社は、中世には鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮と関係があったとされ、義家と墨書された古い神像等を伝えているとされている。
魯庵が松連寺を整備し、江戸の文人を招致したため、紀行文が多く残され、「江戸名所図会」等にも記された。
現在松連寺のことがかなり判明するのは、この碑をはじめとする魯庵の業績に負うところが大きい。
なお、碑文では、松連寺が奈良時代に建立されたように読めるが、その点には疑問がある。
また、分倍河原合戦にて寺は焼夫したとあるが、その痕跡はまだ発掘調査では見つかっていない。
あっ、
ここから
京王百草園行ける~。
江戸時代、徳川家康の長男信康追悼のため
松連寺を再建。
その後、時代を経て
京王百草園になったそうです。
日本庭園と、四季の草花を
楽しめる、和の安らぐ空間
とのことなので・・・
コロナが終わったら
お散歩によさそうですなぁ。
ありゃっ!?
本殿の左側
森への道が続いてる~
きゃっ
きゃっ
これは~いかなくっちゃ~~
わーーい
松連寺詩碑があるんだね。
あぁ、いい道。
るんるん
るんるん
エネルギーもあるある~
この森。
いい道だよ~。
八幡神社境内から
百草園の裏にかけては
樹齢何百年という
シイの木の巨木がたくさんあるとか。
ここのシイの木の種類は
スダジイなんだって。
・・・って!!
ちょっと
ちょっと
すごい。
えっ!?
わぉぉぉおおぉ~~~~~
最大のもの
八幡神社本殿の裏くらい。
さっき下から見上げた
巨木だね。
高さ17m、目通りの太さは1.3m。
スダジイ・・・
ジイ・・・
おじいちゃん
のイメージですなぁ。
はぁ
おっとり~。
わあぁああぁあぁぁ~~~~
あった・・・
確かに
碑だけど
ここ・・・
ぐる~ぐるぐるぐる~~
気がぐるぐる~
パワースポットだよぉ~~~~~
凛々しく堂々と力強い気が
降りてくる。
周辺は
四方八方
森の住人、大きな木々に囲まれて
風も、きもちいい~
いいところだ。
ちょっと
離れてみると
あれれ?
気が普通になっちゃう。
ここだけだぁ。
気が違う
周辺とは違うよぉ~~~。
天地と同体。
ここはやっぱり
昔、大きな聖地だった
お寺の気も残っているんだね。
ちなみに
案内板には・・・
松連寺詩碑 解説
「松連寺詩」と題する五言律詩を刻んだこの碑は、天保十二年(一八四一)九月、慈岳山松連寺第八代住職魯庵により建立された。
百草八幡神社社殿裏手のこの場所も、当時は松連寺が管理していた。
魯庵はさびれた寺を興隆させるため地形を活かして、松連寺十八景の整備を進めた。
本碑もその一環として、江戸の文人との交流の中で生まれたものであろう。
・・・
社殿の脇にある「松連禅寺之碑」に記された寺伝の内容を踏まえると、この詩の大意は次のようである。
松連寺は天平(七ニ九~七四九年)以来千年にわたり法灯を伝える。
和尚(魯庵)は今新たに十八景たる名所を作り、源頼義、義家父子も旧くは奥州平定の道すがら、ここで戦勝を祈願した。
山々の青葉に囲まれて多摩川の流れを目にすれば、心は時間を超越し、世俗のしがらみを忘れてこの世の本質を感じることができるほどすばらしい。
松連寺の歴史の古さと眺望の素晴らしさを巧みに詠みこみ、さりげなく魯庵の功績にも触れている。
この詩は天平年間に松連寺が建立されたとする伝承に基づくが、疑問の余地もある。
・・・
本碑は建立年代から考えて、五世広瀬群鶴の手になるものであろう。
というわけで
百草園には
行けなかったけど
十分自然を味わえる神社でした。
百草八幡宮にきたら
松連寺詩碑にも訪れて
境内の何とも言えない
お香のようないい香りを
吸い込んで
良い気を吸い込んで
厄落とし、してくださいね~っ。