★五島列島 久賀島の教会&パワースポット★


五島列島の旅、2日目は

福江島の隣にある、久賀島にわたります~。宇宙人



~2日目の予定~


久賀島 観光


木口汽船  0959-73-0003(予約必要なし) 

シーガル 福江島9:10発→久賀島 田の浦9:30着


久賀島タクシー (事前予約) 0959-77-2008 9:30~2時間ほどチャーター 4000円

※田の浦~浜脇教会~牢屋の窄教会~旧五輪教会


旧五輪教会堂 11:30~12:00(事前予約)



奈留島

海上タクシー五島 (事前予約)0959-64-4001 12:00お迎え 

旧五輪教会堂前→奈留島奈留港 一人利用 7560円


奈留レンタカー  0959-64-2148 奈留港12:15~15:55 3時間3000円(事前予約)


江上天主堂 14:00~14:30(事前予約)


五島旅客船(株)奈留営業所 0959-64-4156

フェリーオーシャン 奈留港→福江港16:40(予約必要なし)

※ サイトなし。時刻表も変わっているため、電話確認が安心。


宿 福江島  民宿かんこう 0959-72-8788

泊まってた民宿かんこうから

福江港は歩いて5分もかからない。


これは正解正解。合格


車も、昨日の夜に返しておけたし

港が近いのはありがたいわん。HAPPY



それにしてもさ・・・


福江港周辺が一番の繁華街だと思うんだけど、

なんにもにやぁーいよーー。


ほんと?ほんとないよ。(笑)


薬局とスーパーはあるけど

コンビニらしいものは??


ご飯食べるところは、個人店がほんのちらほら。


パッとみた感じはみつけられないなぁ。


五島列島って、意外と、観光地らしい

繁華街がある感じは全くないんだね。笑


福江港ターミナル

とうちゃく。おんぷ


地図はこちら

五島列島を行き来するには

いろんな船会社があって

それぞれが連携されてる感じはないの。


本当にバラバラだから
船と、その時間を調べるのが大変だったなぁ。

そうそう、こういうもの欲しかった!笑


全体の船の時間。
でも、時刻表って、変わることあるからね。


私が調べたときも、個人のネット情報は

時刻表がかわってることがあったよー。ひらめき電球

 

あら?閉まってる??


・・・っと


一瞬ドキッとしたら、

この船は、直接乗船してチケット購入するんだって。うへ

久賀島へは、一番桟橋、
木口汽船のシーガルでむかいまーす。たらこ

この黄色い船だよ~。よっ

乗りこむと、一階席は人がいっぱい。


下におりていくと・・・
 

わお、グラスボート!!!


雨上がりで、海が濁ってるから

そんなにみえないなぁ。目


『あら、こんにちは。私


階段をおりてきたおばちゃま。

スーツケースをもっているけど、島の人っぽい雰囲気。


『こんにちはー。宇宙人


『どこからきたの?観光??私


『うん!宇宙人


『そう〜。私ね、今は長崎に住んでいるけど

母がこっちに住んでて里帰り。私


あっ、だから、島の人っぽいんだ。(笑)


隣に座ってぺちゃくちゃ。
明るくて元気な押しのあるおばちゃま。


せっかくなので、島について、質問タイム。合格


『ねぇねぇ、五島列島の人って

やっぱりみんなキリスト教なの??

福江島を車で走っていたら、

あまりにもいっぱい教会があってビックリしちゃった~。宇宙人


『あははは~、そうね。

でも、私は仏教徒だし、キリスト教の人は、

そんなにいっぱいはいないのよ~。私



へ?


え?



えええええええ~~~~叫び


うっそーーーん。


開けてビックリ玉手箱。



『キリスト教の人たちは、元々長崎にいたの。


長崎の人口が増えて、

逆に、五島列島は人が少なくて開拓できなかったから

開拓のために、長崎の外海地区から五島へ移住したんだけど

そこに潜伏キリシタンが多くいて、広がったの。


最初は、信仰を隠して

仏教徒の島の原住民とも、漁業や稲作をうまくやっていたそう。

 

でもね、潜伏キリシタンが信仰を表明してから

五島の迫害、弾圧がひどくなって、

その時は、本当にひどくてかわいそうだからと、

お寺や仏教との人たちは、そっと食べ物をもっていったりして、

助けたのよね。同じ人間だから。

そのお寺はいまでも草刈りとか行われて、

キリスト教の人も大事にしてるのよ。私



そっかぁ・・・。


それが日本人、なのかな。


島の人達は、コミュニティがしっかりあって、情が深い。

だから、宗教で戦わないで、助ける、共存を選んだのかな。



『昔は、布教の人をふやすためでもあったみたいだけど

キリスト教の人はたくさん子供を産んだの。


でも、外から迫害を逃れるためにきた人たちだし、

小さな島だしね、学校ではいじめもあったわよ。
私のおばあちゃんの頃は、その人達をぼさくれと批判してた。
菩薩のぼさと、くれ、ね。私



さっ、久賀島の田の浦港に到着。万歳


地図はこちら


『午前中、用事があるけど、午後なら案内できるからしてあげたかったわぁ。

午後は、奈留島にいくのよね?残念。

でも、楽しい旅してきてね。私


『ありがとう~~。宇宙人


いつもなら、お誘いにのるんだけど、

午後は、その次の隣の島、奈留島に渡る、

渡し舟予約してるから。


久賀島のタクシーもチャーターしているしね。


ありがとーう。ばいばいー。te


・・・っというわけで


今度はタクシーにのりこみ

お話しが始まる。


五島列島の旅、二日目はこんな感じなのかな。
人との繋がりができる、その瞬間の出会いを楽しむ旅。(笑)



『ねぇねぇ、おにいさんはキリスト教?仏教?神道?宇宙人


私の興味はとまらない。


『あははは~。

この島はね、仏教との人がおおいんだよ。
 2割くらいがキリスト教かな。


僕は、仏教徒だよ。サラリーマン



ええええーなんと!!

2割?!


少ない・・・。かお


私、この島はほぼみんなキリスト教なのかと思っていたけど違うんだ~。


『この島はね、もともとは仏教徒なんだよ。


長崎の大村藩と、五島の五島藩が話し合って

人が多い長崎から、人が少なくて開拓ができない五島へ人を送りこんだ。


五島の開拓のためでもあるけど

迫害を逃れるために、潜伏キリシタンたちは五島にきたんだよ。


ただ、もうすでに、島の中心は、人が住んでいるし、おまけにみんな仏教徒。

隠れて信仰を続けるために、潜伏キリシタンは海沿いに住んだんだ。

当時は、キリスト教の人は、島の外側、海側に住んで
島の真ん中のほうは、仏教徒なんだ。


島の人達だって、あんな海沿いのへんぴな所に人が住んでいるなんて

最初思わなかったといっていたそうだよ。サラリーマン



ほへぇぇ・・・。


何も知らないできた私は、教会がたくさんあれば、
キリスト教徒が多いのかと、思い込む。


そ~ですか、そ~ですか。 

脳みその、書き直し書き直し。上書き保存。



『おねえさんは、何教??サラリーマン


『え?私、何教なんだろう???


初詣もいくし、供養にお寺も行くし・・・

神社もお寺も自然も好き。

海外にいけば教会もモスクもいく。


あっ、神様好き教。(笑)


いろんな神様すきだよ。宇宙人



『はははは~。サラリーマン



平和。(笑)

最初につれてってくれたのは
浜脇教会


住所

長崎県五島市田ノ浦町263


地図はこちら


海がみえる高台にある教会

三角の鐘塔がインパクトあるね~。矢印

浜脇教会

江戸時代後期、1800年前後に大村藩から移住した潜伏キリシタンは、久賀島では上平(かみのひら)、細石流(ざざれ)、永里(えいり)、幸泊(こうどまり)、外輪(そとわ)、大開(おおびらき)などの集落に落ち着き、信仰を続けた。

信徒発見(1865年)後も続く厳しい禁教政策のさなか、久賀島では、代官所に信徒自らがキリシタンであることを公言し、このことが牢屋の窄での殉教へと至った。
禁教の高札撤去後の1881年(明治14年)、迫害を乗り越えた信徒たちは、経済的に厳しい生活の中、最初の浜脇教会堂(現旧五輪教会堂)を建立した。

それまでは、船を漕いで対岸の堂崎までミサに出かけていたという。

信徒たちはこの木造の教会堂で50年にわたり信仰を育んだが、聖堂は長年潮風にさらされて傷みが激しく、また増え続ける信徒の数に対応できなくなり、1931年(昭和6年)、台風や地震、潮風に耐えられるよう、五島初の鉄筋コンクリート造りの教会堂に建て替えて現在に至っている。
そびえ立つ八角錐の尖塔が特徴的な白亜の聖堂は、緑の山々を背後にくっきりと浮かびあがる。

その様子は対岸や遠くの船上からも目に収めることができるほどであるが、第二次世界大戦中は空襲の標的になることを避けるために黒く塗りつぶされていたという。
堂内は、堅牢な造りとは裏腹に、優雅なリブ·ヴォールト天井(こうもり天井)を備え、花をモチーフとした色とりどりのステンドグラスによってやわらかな光で満たされている。

ぺこりっ。ひよこ

あらためて、ステンドグラスってきれいだわぁ。キラキラ


教会の中にはいると・・・


リブ ヴォールト天井は全体的に白の壁、

つなぎ目の枠は、ピンクベージュで、母と子をイメージする優しい雰囲気。

真っ赤なじゅうたんが祭壇に向かって、真っすぐ伸びてる。


落ち着いた感じがあるけど

ここにいると、なぜか胸が少し痛い。


閉鎖的なエネルギー・・・というか

厚みある重さ、負担がかかって、なんだか厳しい。脚が重い。


なんだろ???

何か、察知してる・・??

タクシーに戻り出発。


自分が運転していない分

景色がよく見れていいなぁ。



あ、あそこが町なんだ。目


・・・っていうか、やっぱり店、ない。(笑)



『久賀島って、お昼ご飯食べるところがないときいたけどほんと?宇宙人


『ないねぇ~。サラリーマン


『夜は何するの??宇宙人


『テレビみながらお酒飲んで、すぐ寝る。サラリーマン


『あははは~宇宙人



お兄さんと再びキリスト教の話になる。



プロテスタントは牧師さん

結婚できるけど


カトリックは神父さん

結婚できない。


五島にある教会は、ほぼカトリック、

きびしいから後継者を探すのが大変で

日本人は、そこまでしてなりたいという方は少ないみたい。


『この島は、韓国人のキリスト教の人もくるんですよ。

韓国の人のほうが、信仰が熱心といわれてて

韓国から来た人が、五島の教会で、神父さんになっている教会もあるみたいだよ。サラリーマン


ほへぇ~。

たしかに、私韓国に行ったとき、

お寺も結構巡ったんだけど、厳格な雰囲気が素晴らしかったの。


お坊さんの規律も、日本よりとても厳しくて、

結婚できないといってた。


でも、自然との調和が素晴らしかったなぁ。
日本の神社とお寺の中間って感じで、神々しさがあったんだ。

韓国は、実際訪れて、印象がガラッと変わって、

すっごく行って良かった国。キイロキラ

あっ、鳥居!神社がみえる~。ビックリマーク

『あそこは、この島で大きい神社
折紙神社と、お寺もある。

集落ごとに神社があるんだよ。サラリーマン


『へぇ、行きたい行きたい。宇宙人


『じゃ、ここ?どうします?帰りにいきます?サラリーマン


・・・っと降ろされたところが

牢屋の窄殉教記念教会

 

住所

長崎県五島市久賀町大開(付近)


地図はこちら


隠れキリシタンの弾圧迫害があったところ。


そっかぁ・・・・

まぁ、でも、案内していただいたところだから行こう。



っと、車をおりて

坂を上がっていくと・・・

わ、目が重い、きつい、全身に負荷がかかる。

重力が倍以上にかかるような感覚・・・。走る



大丈夫かな。これ。

高校生の修学旅行でいった

沖縄のガマを思い出した。


あそこもこういうエネルギーが残ってた

これは、人の想念なのかしら。


その当時の人の想いが残っているというより

もしかしたら、訪れる人達の想いが残っているのかな。


祈りの重み・・・辛さ・・・なのか、

とてつもなく独特な重い空気だ。


牢屋の窄殉教記念教会

 

明治元年(1868)長崎の浦上の地においてキリシタン迫害が始まると、多くの信者がいた五島各地でも厳しい弾圧と迫害が始まった。
久賀島では、6坪ほどの牢屋に信者200名を八ヶ月の間押し込み連日悲惨な拷問が行われたという。

その結果、死者39名、出牢後に死んだ者3名という悲惨な弾圧であった。
その状況は外国使節団の知るところとなり、明治新政府の外交問題に発展し、ついに太政官布告によって明治6年キリシタン禁制の高札が下ろされ、信者達は信仰の自由を勝ち取った。
この歴史的場所である牢屋の窄一帯を殉教の聖地として永久に保存しようと地域の信者達が浄財を出し合い地主より買い受け、殉教の牢屋の跡に信仰の碑(殉教記念碑)を建立し、昭和59年には新聖堂も建立された。


牢屋の窄は久賀島のキリシタンたちが殉教した松ヶ浦牢跡である。

1868年、江戸幕府からキリスト教禁教政策を引き継いだ明治政府により、島内の信徒たちが捕えら
れ、この場所で残酷な拷問を受けた。
彼らは自らキリスト教の信仰を表明したために捕えられ、わずか12畳ほどの狭い牢に200名余が押し込められた。

これは畳1枚あたり17人という狭さである。

食べ物は朝夕にさつまいもを一切れずつ与えられるだけだった。

常に体が持ち上がり身動きできない状態で、排泄もその場にしなければならない惨状だった。
男女を問わず牢から引き出され、子どもまでも厳しく棄教を迫られた。

信徒たちは8ヶ月にわたってこの苦難を耐え抜いたものの、飢えや病、拷問のために39名が死亡し、出牢後の死者3名を加えると42名の信徒が命を落とした。

この殉教者のなかには数名の幼い子どもも含まれている。

五島列島各地で行われた潜伏キリシタンへの激しい迫害は、のちに「五島崩れ」と呼ばれる。

久賀島にはかつて浜脇教会と4つの巡回教会があったが、人口減少で永里、赤仁田(あかにた)、細石流を統合し、五島崩れから100年経った1969年、発電所だった施設を利用して殉教記念聖堂とした。

やがて、その建物も老朽化が進み、1984年に牢屋跡に建てられたのが現在の教会堂。
敷地内には教会堂とともに信仰の碑が建立されている。
信仰の碑の左右には殉教した信徒たちの年齢と名前を刻んだ碑が並んでおり、その中には殉教時の様子が刻み込まれているものもある。
また、聖堂内の床には色違いのカ-ペットが敷かれている部分があり、それはかつて信徒たちが押し込められた牢屋と同じ広さを示している。

凄まじいので、書くのはやめときます。

読みたい方は拡大して読んでね。

建物はかわいらしい、小さな教会。

中に入ると、こじんまり。飾りつけはほとんどない。


黄色いじゅうたんがある。
この狭い中にかぁ・・・。


なんか考えちゃうなぁ。

もやもやして、なんか・・・言葉にするのが難しい。


文明開化の時代は、ここは地獄だった。


目の前の海で行われた水責めでは、

対岸にあるのは、神社とお寺。


神仏がいると、改宗しなさいと。

海に向かわせたそうだけど、その時改宗した人はいなかったとか。

信仰之碑

教会のとなりに、監視跡の石碑。

椿が切ないほど美しい。


『どうでした?サラリーマン


『うん、重かったよぉ。いろんな意味で。宇宙人


『そうですよね。

ここは、信者さんがくるところで観光てきなとこじゃないよね。

でも、韓国の信者さんは、必ずここにきて、祈るんですよ。サラリーマン


そっか~。


窓の外は、綺麗な青い海だった。


この複雑な感じは

あとで、整理しよう。


うん。




さてさてっ、つづいては~


久賀島の神社。

折紙神社にいきますぞぉ~~。キャッキャッ