★長崎県 五島列島 福江島の教会&パワースポット★
五島列島の中心、福江島に到着。
この日の行程は・・・一日福江島の観光で~すっ。
2月15日
羽田空港 6:55分発→長崎空港 9:00着
長崎空港 10:40分発→福江空港 11:10着
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福江島 観光
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今日は小雨。降水確率70パーセント。
どーしよっかなぁ。
やっぱり、教会巡りが一番かな。
・・・っというわけで
最初に訪れたのは
常崎教会 (常崎天主堂)です。
住所
長崎県五島市 奥浦町堂崎2019
五島列島の福江島には、こ~んなに教会があるのだね~。
ほんと、すごい数。
こりゃ、巡りきれましぇ~ん。(笑)
・・・っというわけで
五島布教の拠点 堂崎教会
明治6年(1873)、江戸時代以来続いてきたキリスト教禁教がされると、いち早くフランス人宣教師が来島し、堂崎の浜辺で五島初のクリスマスミサが捧げられました。
先祖代々、神父の来島を待ちこがれた信徒たちにとって最上の喜びの瞬間でした。
その後、この堂崎の地に五島で最初の教会堂が建設され、堂崎教会を拠点に五島での本格的な布教が始まっていきました。
布教と同時に、堂崎に赴任したフランス人宣教師は不幸な生い立ちを背負った子ども達を救済するため「子部屋」を創設します。
これが現在の児童養護施設「奥浦慈恵院」の起源となるのです。
この堂崎の地は五島におけるキリスト教信仰の中心地であるだけでなく,児童福祉,社会福祉の草分け的役割を果たした由緒ある場所であるのです。
港からは、車で15分くらいだったかな。
常崎教会は、海沿いで
きもちいいところ。
傘はいらない程度の、しっとりした雨と優しい空気・・・。
長崎から少し離れてるだけなのに、
日の光はなくても、砂浜は白っぽく
透き通りグリーンがかった海がきれい。
潮の香
完全、島気分。(笑)
それにしても・・・
あれ、なんだろう?
面白い形の石がいっぱい積み重なった島。
自然の島なんだろうけど、気に
・・・ 泳がないといけない ・・・。
あら、マドレーヌの専門店だって~
お土産におすすめのお店らしい。
駐車場からは、2分くらい
行き止まりが教会だったよ。
中は、資料館になっているんだね。
明治6年(1873)キリシタン禁教の高札が下ろされ、信者達は信仰の自由の日を迎えた。
それから4年後、五島キリシタン復興の任を帯び、フランス人宣教師フレノー、マルマン両神父が五島を訪れた。
マルマン神父は明治12年堂崎小聖堂を建立し、初代主任司祭となった。
その後、2代目主任司祭のペルー神父は明治37年用地を拡張し、現在の赤煉瓦造りの新聖堂建築に着工、同41年に完成、長崎西坂で処刑された26聖人の一人で五島出身のヨハネ五島を祈念して「日本26聖人殉教者聖堂」と命名された。
外観はイタリアから運ばれた赤煉瓦でゴシック様式に仕上げられ、内部は木造で色ガラス窓、コーモリ天井定法どおりの教会堂建築に仕上げられている。
かつては、五島布教の中枢教会であり、社会奉仕施設や修道院の草けでもあり、キリシタン史上からも重要な位置を占める由緒ある教会である。
この木版画は、まだキリシタン弾圧が続いていた幕末、長崎に来て布教と福祉事業に尽力し、信徒達から慕われていたド·ロ神父が、日本人絵師につくらせた聖教木版画で俗に「ド·ロ木版画」と呼ばれており、明治10年頃の作と伝えられている。
昭和48年、戸岐町宮原の信徒の家で発見された。
版木で下刷りされたものに色彩を施しており、「善人の最後」「悪人の最後」「最後の審判」の三枚が残され、チョンマゲを結った日本人が描かれているなど当時の風俗が伺い知れ興味深い。
図柄は異なるが、類品は長崎の出津修道院、大浦天主堂、伊王島大明寺天主堂、天草の大江天主堂などにもあり、宗教木版画として長崎の版画史に特異な位置を占めるものである。
・・・っといっても
きっと五島の中の教会では
わぁ・・・。十字架・・・。
私は神さまがすきで、特定の信仰があるわけではなく
なんでも興味がある。(笑)
神様といわれれば、挨拶したいし
パワースポットなら、行ってみたい。
宗教でいえば、仏教や神道は、自分の中にす~っと馴染んで
分かってきたことが多いけれど
キリスト教
この十字架の像みると、
感想としては
十字架に向かい、キリスト様に手をあわせる時
瞬間的に、いたくないですか?という感情が心に生まれてしまうのだ。
仏教や、神道では、こういうスタイルないからかな?
でも・・・不思議だよ。
この十字架を背負う、ヨハネ様
苦しそうだな・・・と思いきや、
エネルギーはそんなことない。
この姿は、なんというか・・・、
一つの神像というか、神様のような・・・そんな感覚なの。
マルマン、ベルー像
自由と愛の使者「復活の夜あけ」
五島キリシタン復活の礎となった二人
マルマン神父とペルー神父と子供たち-
明治政府により、信仰の自由が認められるや五島にも宣教師が来島した。
最初に来島し宣教を再開したマルマン神父と、のち現在の赤レンガの天主堂を建てた後任のペルー神父像で、同時に神父たちによる福祉事業の創始を記念するもの。
左手、十字架を背負っておられる方は・・・
聖ヨハネ五島殉教像「受難のとき」
日本26聖人のひとり、1578年福江で生まれ、長崎と天草(壱岐)のセミナリオで学び、伝道士を志して、大阪のイエズス会宣教師と同宿中、豊臣秀吉の命により捕縛され、1597年2月5日長崎にて殉教した。
長崎まで800キロ、33日間の道程を耐え忍び、西坂において、他の信者や神父25名とともに十字架上で殉教した五島生まれの19才の青年である。
1862年教皇ピオ九世により聖人の位に挙げられ、世界全信徒の尊崇をうけるに至った。
信教自由と人間愛の証しとして19歳の青春を神への生贄とした。
この像は、死の直前、神に祈りを捧げる瞬間をとらえたものであるが、その強い信仰心は、世界の聖者として、全信徒の崇敬の的となっている。
なかなか、今の日本に住む、
私の脳みそでは考えられないなぁ・・・。
元帳(かくれキリシタン)について
キリシタン弾圧時代、公に信仰をあらわせなかった信徒たちは、表向きには、仏教徒を装いながら、内密裏には、キリスト教信仰を守りつづけていた。
この時代を潜伏時代、その信徒たちを潜伏キリシタンという。
1873年(明治6年)信仰の自由が認められるや信徒たちは再び宣教師の指導下に入ったが、一方では、潜伏の時代からぬけ出ることができず、今日に至っている信徒たちがいる。
このような信徒たちを、部外者たちは「かくれキリシタン」とか「はなれ」とか
呼んでいるが、当人たちは、その言葉を好まず、「元帳」とか「古キリシタン」などと称している。
今日、地域の過疎化と後継者難のため信仰組織は解散の危機に瀕しているが、堂崎資料館では、潜伏キリシタン時代の信仰形態を物語る貴重な資料を展示している。
あ、どんな方が祀られているんだろう・・・。
可愛い~美しい~
レンガ造りの教会。
教会の中へ、いこいこ~。
あっ、中は・・・、祭壇はあるけど
ここは、展示品が多くて、ある意味博物館のような感じかな。
埃っぽい香というか、古い湿気の香り・・・。
祭壇は一番奥にあって
アーチ状の筋をもつ天井は、チェロのような茶色、
全体的にはオフホワイトのコウモリ天井
日本の美しさがミックスされた雰囲気があって
ステンドグラスが、きれい~。
なんとなく木材のおっとり落ち着いた印象があり
展示物が多いから、祈りの場の気はそこまで感じないよぉ。
あ、マリア観音だ~~~。
マリア観音
キリシタン禁制の時代、潜伏キリシタンが信仰偽装のため中国や平戸で焼かれた白磁の観音像をサンタマリアとみたてて崇めたもの。
私、マリア観音あいたかったの。
どんな姿なのかな~って。
ほんと、菩薩さまみたい・・・。
たくさんのマリア観音、母子観音がある。
やさしい母という雰囲気で、一見菩薩さまにしかみえないけど
よく見ると、首元に十字架のネックレスがついているよ~。
お帳
1634年の太陰暦による教会暦。
外海、五島の潜伏キリシタンはこの日繰りをもとに宗教行事を繰り出した。
代々、帳方(信仰組織の代表)に受け継がれ信仰継承の原動力となった。
あ、踏み絵もある!!
聖ヨハネ五島聖骨
ド、ロ聖教木版画
中村長八神父の写真
他にも、聖ヨハネ五島関係資料、元帳(かくれキリシタン)資料、中村長八神父関係資料、ロザリオ、メダイ各種、各取洋之助氏撮影写真
などなど・・・
衣装、パワーストーンのネックレス、服飾品、
赤ちゃん
キリスト教の絵など
もろもろが展示されています。
凄まじい時代の中、キリスト教を信仰した人達を、
少し感じることができる教会です。
まず、五島列島の歴史やキリスト教が
ドミニコ中村長八神父ゆかりのイヌマキの木
1865年五島列島奧浦村浦頭の地に生を受けた中村長八師は、司祭叙階後26年を奄美大島で、その後の17年を日本人最初のカトリック海外派遣宣教師としてブラジルの地に生涯をささげられました。
75年の生涯は宣教そのものの人生でした。
このイヌマキはブラジル出発の直前 奄美より浦頭の生地へ移植し、大木となった木の子孫となるものです。
あ、あそこにはマリアさまがいる~。
アルメイダの宣教碑「出会いの日」
五島とキリスト教との最初の出会いはフランシスコ·ザビエル鹿児島上陸(1549年)から17年後の1566年の事である。
ポルトガル生まれで優秀な医師でもあったイエズス会宣教師ルイス·デ·アルメイダと、平戸生まれの日本人修道士ロレンソ(レリーフ左手前の2名)が五島領主18代宇久純定(レリーフ中央)の要請に応えて来島し、キリスト教布教と病がちの純定の治療に努めた。
純定の子純堯は受洗して1576年キリシタン大名となり、五島キリシタンは信徒2000名余りという隆盛の時代を見たが、純堯はその3年後に35歳で帰天し、五島は信仰の受難の時代を迎える。
彼らは、時の領主宇久純定の招きにより、城中でキリストの教えを説き、多数の者を洗礼に導いた。
この碑は、島の人々とキリスト教との「出会い」を記念するものである。
マ~リア~さまぁぁ~~~~
洋風の顔なのがマリア様
和風の顔なのが観音様
という感じがするけど
やっぱり波動は違う。
マリア様は、軽やかな波動があり、柔らかさに包み込まれるの~。
仏教で、少し近いといえば・・・、如意輪観世音様の気かなぁ~。
さっ、今回は天気も微妙だけど
でも、教会巡りは雨でも大丈夫。
この島の歴史もしりたい。
次はどこに、むかおうかなぁ~。