★東北地方 秋田県のパワースポット★
つづいては~
秋田で一番、私が気になっていた地域。
男鹿半島です。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20181001/20/tomo-chupi/a4/2e/j/t02200168_1280097714276366946.jpg?caw=800)
こういった突き出た半島って
パワースポット多いのです~っ。
地形も面白いから、海岸沿いとかも魅力的なの。
さぁ、まずは~
この男鹿半島で代表的な神社の一つ
赤神神社 五社堂へまいりましょう~。
ご祭神
赤神
天津彦火瓊々杵之命、天手力男命、大山祇神、天照皇大神
他二柱
住所
秋田県男鹿市船川港本山門前字祓川35
018-833-7132
地図はこちら
な~まは~げさ~~ん。
五社堂までの時間
門前駐車場から徒歩約30分
五社堂駐車場から徒歩約15分
ということで、
私は、五社堂駐車場まで車でいきまーす。
駐車場からは~、登山だよ~。
でも、まっ、15分だからね。
門前(男鹿の秋風)
文化元年(一八〇四)八月二十六日小浜から門前に入り、赤神山の由来や伝説を真澄は「男鹿門前の秋風」の中に、次のように記述している。
門前の浦に入った。䄂垣に着物を干しかけてある。小橋を渡ると萱ぶきの堂がある。
円仁(慈覚大師)が仁明帝の承和四年(八三七) のころ唐にわたり、文徳帝の仁寿の年(八五一~八五四)
坂をはるばる登ると姿見の井戸がある。
この水鏡がくもって、姿がぼんやり映った人は命が長くないという占いがあるという。
ふむふむ。
レッツゴーゴーッ
この地には貞観2 (860)年に慈覚大師円仁によって開山された赤神山百積寺永禅院という寺院がありました。(縁起による)。
五社堂へ登る石段は鬼が積んだ999段の石段と伝えられており、「男鹿のナマハゲ」の由来の一つともなっています。
徐福塚について書いてあるよ。
わぁ!!勢いある~神様の木だね~。
・・・っていうか
・・・
・・・
えええええええええええええ~~
にゃっ、にゃんだこの道・・・。
うそん、ひっくり返っちゃいそうだよぉ。
![あせる](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/029.gif)
まだまだ続く石段。
五社堂周辺宗内
蓮弛から石段をのぼりつめた五社堂の境内地は、標高約180~190メートルある。
周囲を土塁と堀り切りで区画し、そのなかに三段の整地面がある。
参道左側の池は中島のある御手洗池で、無明橋がかかっていた。
そばの井戸は、姿見の井という。
池の左側に、推定·熊野堂、馬頭観音堂があり、飛び石状の参道をたどると、不動堂跡、その右に未命名の礎石が残っている。
参道をはさんで池の右側にも整地面があり、建物があっとらしいが礎石は失われたようである。
長床(ながとこ)跡は、切り石の参道をのぼった平坦地に、礎石の一部を残している。
右側に、逆さ杉がある。
五社堂は、長床跡から左右両端に設けられた石段をのぼる。
右手に門跡と書いてあって・・・
左手には御手洗の池と
中島。
たしかに、小川が流れていて小さな島みたいになってるよ。
管江真澄の道 姿見の井戸
この水鏡が曇り、真個の形が写らない人は、命が長くないと占われる。とある。
また、鈴木重孝編著本キヌブルイによると、弘法大師加持の御供水といい、三尺余の丸石の井なり、深さ一丈余。井水に姿を写し見えざれば、三年の中に没すという清水なり。登山の男女漱をなす、と記されている。
さぁ、あとどのくらいかなぁ・・・。
![叫び](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/254.gif)
![足あと](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/005.gif)
★三の宮堂(さんのみやどう)
★客人権現堂(まろうどごんげんどう)
大地に根を張り、太い柱になりそうな力のある気。どんなことも任せなさい!という感じ。^ ^
円空前期最終盤の傑作、十一面観音像が安置されています。
★赤神権現堂(あかがみごんげんどう)
強くたくましくどっしり将軍のような力。
エネルギッシュで、頼りになり、負けなさそう!
勝負の味方!という印象。
★八王子堂(はちおうじどう)
軽やかで凛とした筋の通ったような気。
身も心も清められそう〜。
★十禅師堂(じゅうぜんしどう)
という感想~。
![合格](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/304.gif)
赤神神社五社堂
男鹿のナマハゲ (行事)には、元、モデルとなっている五匹の鬼がいます。
眉間(みけん)・・・父
逆頬(さかつら)・・・母
眼光鬼(がんこうき)
首人鬼(おびとき)・・・子
押領鬼(おうりょうき)
なまはげ(人間+ 面)行事の、元、モデルの鬼を今日に伝える神社が赤神神社五社堂です。
この五社堂のお話がありました~。
九百九十九の石段
むかし、むかし、漢という国(今の中国)に、武帝という人がいた。
その武帝があるとき、白い鹿のひく飛車に乗り、五ひきのこうもりをひきつれて男鹿にやってきた。
そのときの五ひきのこうもりは、五ひきの鬼にかわってしまった。
武帝は、この五ひきの鬼たちを家来として使っていた。
ある日のこと、五ひきの鬼があつまって
「どうか, 一日だけでもいいから、わたしたちに休みをあたえてくれ」
と武帝にたのんだ。
武帝は、ふだんよく働く鬼たちのことだから
「それならば、正月十五日は、たった1日だけ休みをあたえよう」
とゆるされた。
さあ、喜んだのは、五ひきの鬼たちだ。
初めて人間の社会へでれるうれしさでいっぱいだった。
そこで、鬼たちは、村の畑作物や家ちく、しまいには美しい娘たちまで、さらって行ってしまったではないか。
さあ、ふんがいした村の人たちは、鬼を退治しようと決心して、ある夜、武器を手に手にもって、鬼退治にいった。
ところが、力のある鬼たちのために、さんざんな目に会わされてしまった。
そして、鬼たちはますますカをふるい、らんぼうをするというあばれかたであった。
ついに、たまりかねた村の人たちは、みんな集まって相談した結果、武帝にお願いをすとにした。
「毎年、ひとりずつ娘をさしあげる。そのかわり、五ひきの鬼どもは、五社堂まで一夜のうちに、しかも、一番どりのなく前に、千段の石段をきずくようにしてくれ。まん一、これができなかったときは、ふたたび村へおりてこないでほしい」
村の人たちの考えでは、いかに怪力があっても、一夜のうちに干段の石段をつくることはできないだろうと思っていたのだった。
いっぽう、鬼たちは、さっそく日のくれるのを待って石段づくりにとりかかった。
鬼たちは大きな岩石をかかえ、あれよ、あれよという間に、石段をつみあげていった。
これでは、一番どりがなく前にできあがりそうなので、あわてた村人は、ものまねのうまいアマノジャクにたのんだ。
鬼たちが九百九十九段までつみ上げ、あと一段というところで、アマノジャクにとりの鳴き声の
「コケコッコウ。」
をやってもらった。
鬼たちは、はね上がっておどろいた。
やがて、おどろきがいかりにかわり、ぶるぶる身をふるわせ、かみをふり立て、雷のようなおそろしい声で、
そばにはえていた千年杉の大樹をむんずとつかんだ。
この木の根を上にして、まっさかさまに投げつけ、大地にぐさりとつきさし、鬼たちは、さっさと山へ帰ってしまった。
それからというものは、ふたたび村におりてくるということはなかった。
そのさかさ杉は根を空にむけてはえていたが、今は立ちがれてしまい、横になったまま保存されている。
門前にある赤神神社から五社堂までの石段は、今も続いている.五社堂には、今なお、この五ひきの鬼たちをまつり、むかしを物語っている。
これが、今日のナマハゲのおこりともいわれている。
黒神と赤神の戦い
むかし、むかし、津軽の竜飛というところに、黒神という神さまがいた。
また、南部の十和田湖には、ひとりの美しい女神がいた。
それに、出羽の男鹿にも、赤神という神様がいたそうである。
ところが、その美しい十和田湖の女神を、黒神と赤神がおたがいにわれのものにしようと、あらそいがおこった。
女神は,どちらからも言いよられたので、困りはててしまった。
女神のすがたは,それはそれは美しかった。
女神の着物のすその色といったら、百里四方に美しくかがやいたという。
その女神は、黒神と赤神のことのためになやんでいた。
赤神のなさけ深く、やさしい気持ちに、いったんはひかれたけれども、顔はくろがねのように光り、すべてが元気よく、いさましい働きぶりをする黒神にも心が動いたので、どちらともきめかねていた。
きのうは、黒神が竜に乗って女神をたずね、身にしみるような心のあたたまる気持ちをつたえられた。
また、きょうは、赤神の鹿が使いに来て、赤神の気持ちをこまごまと書いた手紙をもって言いよられた。
けれども、女神は、黒神の話を聞いたり、赤神がしたためた手紙を読んだら、どういっていいやらわからなくなってしまった。
これが自分のしあわせかと思い、手紙の上にくずれ、ほろほろと声をたてて泣いてしまった。
さて、黒神は、自分と競争相手の赤神がいることに気づいた。
また、赤神も自分より先に女神に近づいている黒神のいることを知った。
いつとはなしに、ふたりの間であらそいが始まったのである。
そして、とてもはげしい戦いとなってしまった。
おたがいに何回も何回もせめ合ったけれども、勝負はつかなかった。
そのとき、八百万の神たちは、津軽の岩木山に集まって、ふたりのはげしい戦いを見物していた。
そして、黒神が勝つというほうは右へ、いや、赤神が強いというほうは左にというように、見物の神々も二つに分かれてしまった。
黒神が勝つというほうが大部分で赤神が勝つとみるほうは少なかった。
岩木山の右のかたが低くなっているのは、その戦いのときふみくずされたあとだそうである。
いかに戦いがはげしかったかよくわかる.
赤神のほうにりっぱな武者がいたが、太陽が空から海に落ちるというまぼろしをみて、とうとうなくなった。それからというものは、赤神の勢いは、どんどんおとろえてしまった。
黒神はそのため、すぐ男鹿の根城の下にせまった。
黒神にせめられた赤神は、刀が折れ、矢がつきて、「空寂」という穴にかくれて、再び出てこないとちかったそうである。
それを聞いた黒神も、さらばと、がいかをあげて帰ってしまった。
黒神は、このめでたい知らせを女神につげようと思い、刀の血のりもぬぐわずに、十和田湖の女神にはせつけた。
ところが、ふしぎに女神のすがたはなかった。
戦いに負けた赤神に女神は同情し、「空寂」の穴に移っていたのだった。
黒神は天をあおいで、百千年の息を一度にはいてがっかりした。
そのときはいた息で、今の北海道が津軽からはなれたということである。
今でも津軽の竜飛にいくと、岩がみな黒い形にかわり、うちよせる波もあらい、ちょうど黒神のような、 おおしい神さまのすみかであったように思われる。
また、男鹿の岩は大部分赤みをおびている。
大桟橋、小桟橋などには、ほかに見られない鬼のすんだあともある。
しかし、岩はどちらかというとおだやかな形をしている。
空寂の窟は、今、高雀窟(こうじゃくいわや)、または、孔雀窟という名にのこっている。
窟の深い探いおくそこには、一つの石のとびらがあって、そのとびらを開くと、雪のように白い女が立っているという話もある。
そして、この戦いにたおれた赤神のけらいは、今も男鹿市北浦の山野一面にさく、まんじゅしゃげだとも言いつたえられている。
秋田のむかし話より
赤神神社の創立はきわめて古く、赤神は漢の武帝の飛来したところと伝えられ、貞観二年、慈覚大師がここに日積寺永禅院を建て、赤神をその山神としたという。
建保4年に、源実朝は堂社をことごとく比叡山に模して造営したとされている。
その後、応安5年に安倍高季によって修復され、元和3年拝殿造営、寛永15年、寛文2年再興、延宝3,4年には堂全体の造営があった。現在の社殿は、秋田藩主第四代佐竹義格の命により大久保小左衛門が普請奉行となり、宝永4年から7年にかけて建て替えられ、江戸中期様式を示す建築である。
五社は、向かって右側から三の宮堂、客人権現堂、赤神権現堂、八王子堂、十禅師堂で五棟とも格桁行二間、梁間三間一重、正面入母屋造、背面切妻造、妻入、向拝一間、唐破風造、栩葺の建造物である。
中堂は厨子をおさめるため他より大きい。
また、同型式の社殿五棟が山中に横一列に並んで現存しているのは極めてまれである。
この地は、平安時代末から天台宗山岳仏教の修験道場として発展し、後に真言宗に改宗、藩主から多くの神田を寄進され、衆徒の存在も知られ、おおいに栄えていたが、明治になり神仏分離令により赤神神社として残る。
御神木も力強い~ですぅ~~っっ。
・・・っというわけで
赤神神社五社堂でした。
これは、石段はちょっと大変だけど、素晴らしい所だよ~。
男鹿半島にきたら、ぜひっ!です。(笑)
歩きやすい靴でくるのと
雨の時は、滑りやすいかもしれないので、気を付けて訪れてくださいね。