★和歌山県 高野山のパワースポット★
~過去のブログと統合しています~
つづいてはっ
高野山真言宗の総本山、金剛峯寺にいきましょ〜
住所
和歌山県伊都郡高野町高野山132
正門
今わたしたちは
ふつーに入れちゃうけど
昔は、この正門
天皇・皇族、高野山の重職だけしか
入ることができなかったそうだよ。
ではっ、ペコリ。
うぅ~ん、雄大。
美しいです~
社寺建築。
拝観料は1000円。
ここは、お参り、というよりも
襖絵や庭園を眺める、
博物館のようなイメージです。
弘法大師
弘法大師(空海)は、真言密教を中国から日本に伝えた真言宗の開祖です。
宝亀5年(774)に讃岐国(現在の香川県)にてご誕生になり、20歳で出家。
31歳で唐に渡り密教の教えを授かり、帰国後、鎮護国家と済世利民の祈りの道場として、あわせて修行者のための修禅の道場として、高野山を開かれました (816)。
金剛峯寺
金剛峯寺は、弘法大師が「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経」にもとづいて名づけられた高野山の総称です。
現在は奥之院弘法大師御廟を信仰の中心として結成された高野山末寺3600ヵ寺、信徒一千万の総本山です。
もと文禄2年(1593)豊臣秀吉が母堂の菩提のため寄進したものでしたが、当時の建物は火災で損失し、現在の建物は文久3年(1863)に当時の姿をそのままに再現されたものです。
①大広間と持仏間
大広間は重要な儀式・法要が執り行われる処で、2月の常楽会や4月の仏生会等がここで行われています。
襖には群鶴の絵、 松の絵が描かれ、 狩野法眼元信 (1476~1559) の筆と伝えられています。
正面奥の持仏間は、本尊にお大師さま。
両側には、歴代天皇御尊儀のお位牌や歴代座主のお位牌。
②柳の間
山本探斉による柳鷺図が描かれていることから柳の間と呼ばれています。
この座敷は、文禄4年(1595) に豊臣秀次が自害したことから 「秀次自刃の間」とも言われています。
③ 別殿
91畳と78畳の二間からなっており、仕切りを外せば169畳の大広間に早変わりすることできます。
④新別殿
昭和59年(1984) の弘法大師御入定1150年御遠忌大法会執行に、 大勢の参詣者の接待のため、記念事業の一環として同年1月に新設されました。
⑤蟠龍庭
弘法大師御入定1150年・御遠忌大法会の際に造園されました。
2,340平方メートルの石庭は、国内で最大級を誇っています。
この石庭では、雲海の中で向かって左に雄、向かって右に雌の一対の龍が向かい合い、 奥殿を守っているように表現されています。
龍を表す石は四国の花崗岩が、 雲海を表す白川砂は京都のものが使われています。
⑥上段の間
天皇上皇が登山された際の応援間として使用された所で、現在は高野山の重要な儀式に使用されています。
上段の間には上々段の間と装束の間があり、 壁は総金箔押しであり、天井は折上式格天井の書院造りの様式になっています。
上段右側にある小さな房の着いた襖は 「武者隠し」といい、襖の向こうには一室の部屋があります。
⑦奥書院
皇族方のご休憩所として使用された所で現在はもっぱら儀式に使用されています。
座敷内に囲炉裏があり、冬は薪をたいて暖をとりました。
襖の絵は、 雪舟として名高い雲谷等益(1590~1644) と、 その息子の雲谷等彌(1615~1671)の筆によるものと伝えられています。
上段の間と共に昔は高野山最高のお部屋でした。
⑧ 真然廟
寛永17年 (1640) 建立。
総本山金剛峯寺境内の小高い丘に位置し、 正面に向拝を設け、屋根は宝形造、檜皮葺の建物です。
当初は真然堂と呼ばれていたが、発掘調査の時、お骨の納められた御舎利器が発見されたので、 新たに真然廟として手厚く祀られました。
⑨茶の間
令和2年(2020) に千住博画伯より断崖図の襖絵が奉納されました。
この部屋は主に儀式・法要の際の控室として使用されています。
⑩土室
囲炉裏の間で、土室と呼ばれています。
土室とは「土を塗り固めて作った部屋」 という意味です。
高野山の冬場は非常に厳しい土地で、暖をとる為の工夫として土壁で囲んだ部屋の中に囲炉裏を設け、できるだけ保温効果を高め、風寒をしのぎました。
囲炉裏は煙を天井から屋根の外に抜くようにできています。
(瀧図は千住博画伯奉納)
というわけで
撮影できるところは
限られているので
雰囲気を。
庭園
龍庭(ばんりゅうてい)
この庭園は奥殿を中心に五百余坪に及ぶ我が国最大の庭である。
勅使門より見るに、左に雄龍、右に雌龍を配して、金胎不二を表す。
全面に京の白川砂を敷き画かれた青海波大雲海となる。
組まれた名石は大師練行の聖地四国の霊石である。
四季の中庭
江戸期に造られた庭園で、高野山の四季折々の風景が眺められます。
「高野槙」は悠仁親王殿下のお印になっております。
お部屋ごとに
いろんな襖絵があってね
(写真はとれないので、ホームページみてね。)
わたしのお気に入りは~
ボタンや、さくら、すいれん、かえでが
描かれた襖絵
ふすまから
ふわぁ~っと
花の香りが届いてくる感じで
すきです~
あっ、
こちらは
千住博(せんじゅひろし)さんが描いた
襖絵、断崖図、瀧図
テレビでも取り上げられていました~
断崖図
土室(つちむろ)
精進供(しょうじんぐ)
正面のお供えは仏様への精進供です。
突仏供(つきぶつく=ご飯を仏さま用に成型したもの)と汁物の具材である高野豆腐や乾燥シイタケなどを手前に配し、副菜として大根、人参、さつま芋やナスなどの新鮮な季節の野菜をお供えします。
先の方を斜めに切ってあるのは、新鮮なものを調理して仏さまに召し上がっていただくという意味です。
なお、野菜であっても、玉葱やニンニク、ニラなど臭いの強いものはお供えしません。
瀧図
千住博さんの技法なども
展示されています。
おうちっぽい部分も~
ここは
江戸期以降、
大勢の僧侶の食事をつくっていた
御台所。
煙突もあるよ~。
時代劇の世界に
タイムスリップ、です。
さてっ
金剛峯寺をみたら
次、わたしが、行きたいのは~
霊宝館です。
高野山は、弘法大師空海により弘仁7年(816) に開かれました。
金剛峯寺と高野山内117の寺院に伝わる寺宝は1200年を経た今もなお膨大な量であり、まさしく日本宗教美術の殿堂といえます。
高野山霊宝館はそのうち、国宝、重要文化財などの指定文化財約 28,000点を含む約100,000点にのぼる絵画・彫刻・工芸品・書跡・考古資料などを収蔵しており、これら貴重な文化遺産を大切に守り伝えるとともに、みなさまに順次公開していきます。
ということで
高野山の貴重な仏像や仏画を
展示、保存する施設。
中には大日如来や、不動明王、愛染明王、他
たくさんの仏像が展示されているんだけど
曼荼羅(レプリカらしいけど本物そっくりなんですって)の大きさには
びっくりしたよ~。
平清盛が血をまぜて描いた所があるそう・・・。
あとはね、私が行ったときには
ちょうど十王図が展示してあったの。
人間が死んでから
生前犯した罪で、裁判があって、行く場所がきまる・・・
という絵。
裁判の判決で、悪い判決だった人は
10回の裁判のたび、舌をきられたり、体がさかれたり、焼かれたり、
なんだか、こんな状態じゃ魂がなくなってしまうのでは???
と個人的に思うくらい
悲惨な目にあう姿を描かれているの。
・・・っというか
悪人はしぶといのか
こんなにされても平気なのか・・・霊は・・・。
というくらい。(苦笑)
絵をみたら、エネルギーでクラクラした。
のるのよね、
絵って。
うーむ。
死んだ記憶はなくても
先祖供養していかなくては・・・ですね。
そ~してっ
高野山で
私が立ち寄る聖地は
まだまだ。
女人堂と
浪切不動尊 です。
高野山は女人禁制だったため
女性は入ることが許されなかったので
女性が入ることができるお堂として
建てられたのが
女人堂 です。
高野山の北西の入り口にある不動口にいまだのこる女人堂は、一千年余りの間女人禁制であった高野山の七つの入り口にそれぞれ建っていた女人堂の唯一の残存建造物。
むかし、女性はここから山内に入ることが許されなかった。
お堂の正面には・・・
あっ、
大日如来さまだ~。
わぁ、あったか~い、やさし~い。
女性的な気~
平和、和を感じるエネルギー・・・
心が朗らか~
ゆるゆる~
大きな光に包まれて
ポーッとしちゃう。
女性のみなさまに
おすすめスポットです。
そんでもって
高野山真言宗
別格本山 浪切不動尊 別当
南院 へ。
住所
和歌山県伊都郡高野町高野山680
弘法大師が唐から帰る際
嵐にあってしまい、
海上が荒れ狂った中
弘法大師が
不動明王に祈願したところ、
全身から光を放って
荒波を切り鎮めた
という、浪切不動明王がお祀りされています。
ぎゃあぁあっ
破壊的!?力が強烈、強いっっーー
一発一撃。撃沈。笑
浪切不動明王は
あらゆる邪悪を破って、
恐怖のいっさいを除き救いつくす
という
明王さま。
あ、はい。
邪悪も、何もかも、吹っ飛ばしてくださる
そんな、かんじ、です。
踏ん張ってたたないと
私も吹っ飛びそう。笑
ふいぃ~。
というわけで
いよいよです。
待ちに待った
弘法大師さまの御廟
奥の院に
いっきますよー。
つづく。