【口永良部島】噴火の翌日に避難所にいってきました。 | 島暮らし大学生【口永良部島】

島暮らし大学生【口永良部島】

慶応大学を1年間休学。鹿児島、屋久島の隣にある離島「口永良部島」で一人暮らしをしていた22歳の奮闘記。

5月29日の新岳噴火の翌日に、
長谷部先生
平田大樹( OBで同級生で親友)
北吉朗(プロジェクト後輩)
と4人で屋久島の避難所に島民の方々に会いに行きました。

噴火の時、僕は新宿駅周辺を歩いていました。プロジェクトのLINEで永由が噴火したことを連絡し、思考停止。レベル5というのをみて、いまテレビでは間違いなくこればかりだと思い、情報を収集するべくビックロに駆け込みました。でも地上波はみれなくて、断念。急いで帰って家のテレビを見ることが一番早いと思い、反射的に帰宅しました。大江戸線での帰宅中には、プロジェクトLINEにて現地は緊急事態なので、直接連絡はまず控えること、長谷部先生とはとりあえず情報をくまなくチェックしていくことで合意しました。その時点で屋久島避難が決定していたので、先生は「屋久島にいきましょうか」となかなかのエモ具合でおっしゃっていました。ツイッターで定点カメラの映像が流れて明らかに港側に多大な影響がきていることがわかり、不安は本格化していました。プロジェクトで直接連絡を控えることになったもののあまりにも他人事ではいられず、電話じゃなければとおもい、ものすごい緊張しながら昨年の夏祭りのバンドの久木苫運送LINEで無事か確認しました。そうするとゆうさんなどから「大丈夫だよー」と連絡。本格的に安心しました。番屋が峰に電話し、声も聞けて平常心は取り戻しました。すぐに人的被害はなしと情報が流れ、一旦は完全に安心。その後ぜんおじが火傷していたことを知り、危機という認識は強固になりました。持病を持っている方が、状況が良くなくて薬をとりにいく必要性がでて慌しかったりしたようです。まず番屋が峰避難がなされたわけですが、この時点で避難あるいは避難所という存在は本当にケアが求められていて、すべての人の日頃の生活・不安・特殊性が一挙に集合するわけで、かなりの応用力が前提として求められているわけですね。非常事態にはあらゆる不安や問題がどう浮き彫りになってもおかしくなく、高い確率でそれを対処する装備がない。ほんとに防災バッグみたいなものが生命線なりうると考えるとすごいですよね。

家に到着し、気象庁の会見と安部総理の会見がありました。島の皆さんはまだ番屋が峰だったので、LINEで会見の内容を逆に実況しました。安部さんが会見したことと、自衛隊、海上保安庁の派遣が即決定されていたことをしり、規模の大きさを認識しました。昨年の8月の噴火で僕は世界の終わりを感じましたが、その10倍以上の噴煙があがったようです。

(これを書いているいま、再噴火のニュースがありました。)

先生、じょーじさん、だいきと連絡を取り合い、とりあえず先生は週末にでも屋久島にいく決心をしたようで、ぼくも決心。だいきときたよしも行くことになりました。屋久島への避難も完了し、行ってなにができるかわからないけれど、行かない選択肢がなかったので行ったという感じです。翌日の朝9時に羽田に集合で向かいました。何をもっていけばいいかもあまりわからず、とりあえず子どもたちが退屈しない何かがあったらいいかもとおもい、ジバニャンのお菓子をもっていきました。

噴火当日の時点で、新聞社から島民の連絡先を知りたいとの話と、ニュース番組から噴火前の新岳の映像がないかと僕個人のところに連絡がきていて、東京のテレビも終日口永良部島の話題であっただけに現地ではかなりのマスコミの量だとは覚悟していました。このブログも日頃30アクセスとかですが、噴火当日は4000アクセス越えで、マスコミの人たちのアクセスもかなり多かったんじゃないかなという感覚です。

行く途中で、屋久島に入っているNHKの記者の方がSFCの長谷部先生のお知り合いの方であることがわかり、その人と空港で待ち合わせることに。ゆうたもいたので、状況をシェアしながらとりあえず昼食。空港に大山さんがいて、最初の島民とのコンタクトになりました。やはり気にされていたのは、京大井口教授の「1ヶ月~3年」という発言。これは後々、マグマがかなり残留していることがわかって、長期化することになりますが、学者の一つの発言の大きさに驚きました。これが報道されてから、鹿児島市内、大阪の親戚の元に行かれる方が多くいました。

レンタカーをしてゆうたの家により、避難所に向かうことに。まずは公民館です。入り口にはマスコミがぎっしり。栄一さんは県庁の方とお話しされていて、そのほかに10名ほどいらっしゃいましたが、みなさんお疲れでお休みされていました。栄一さんは僕らが来たのをみて、(そもそもだれにも連絡せずに伺いました。)にやけていました。何か感情が高ぶったりとかそういった様子はなくていつもの栄一さんでした。税さんも元気で、めっちゃ暇とかいいつつ、大変そうな表情。ゆうさんとなおさんは寝ていましたが、起きて、僕らがいるのをみてびっくりして、ゆうさんは慌てて、手を握ってくれたのが印象的です。完全にきてよかったと思いました。その時避難所はピクニックみたいな銀色のマットを二枚敷いて布団代わりにしているような感じで、昨晩も特に寝れたわけでもなくなかなかしんどそうでした。下の階では久子さんと真木さんがキッチンで宮浦の婦人会の方々に混じって料理をしていました。さすがだなと思いつつ、翌日ということもあり、避難所には、まだ何もない時間が流れている気がしました。

次に憩いの家という老人ホームに行きました。ここは主に子どもたちとその家族がいて、マスコミがこちらもびっしり。しょうじさんやゆうこさん、もりさん、きょうこさん、ひろしさん、子どもたちにお会いできました。やはり噴火のショックは大きく、まだなにがどうなるかわからない状況で、お話しのなかで涙を流される方もいらっしゃいました。消防団の人は消防服を着て過ごしていました。ただ子どもたちは相変わらず元気な様子で、島にいる時と変わらない勢いで絡んできてくれました。




三箇所目は、縄文の苑という老人ホーム。ここは僕が昨年の噴火の際に島民と一緒に避難した思い出の場所でした。主にお年寄りが避難されていて、区長さんやとよじさんなど、ぼくらにあってとても喜んでくれました。ホールの方にはしっかりしたベッドが必要な方が3名ほど休まれていて、どんなに設備が整っているとしても、やはり生活面の不安は取り除ききれない気がしました。
夜に、もう一度憩いの家にいって、消防団や森さんの方で何かお手伝いすることがあればということでいろいろしました。まさゆきさんやまきさんと結構お話ししました。やはり口永良部島という離島には人生の余暇みたいな感じで居住されている方もいらっしゃるので、そういう人と、これからの島の将来を担っていこうと考えている方とで行動は変わってきます。避難所も島の仮の姿ですから、その主体性はあらわになってきます。しかしそこは、日頃毎日顔を合わせていた仲間であり、当たり前のように共同生活が成立しています。まきさんは、やはり、「噴火の危険度やレベルとか行政の判断どうこうとかすべて考えた上でもやっぱり、絶対島に帰りたい」とおっしゃっていて、なんというかやはりこの「活火山に生きる」という価値観にかなうものはないなと強く思いました。つまるところ、どんなに新岳が危なくても噴火することがわかっていても、それによって帰島するかが左右されるわけではないということです。みんな家に帰りたい、というあたりまえの気持ちでした。前回の噴火の時は、まきさんは島外にいて鹿児島市内から避難した人たちと合流する形でしたが、今回は噴火を目の当たりに。いつもは杖のきよしさんが痛みをわすれてまきさんの家に走ってきて噴火した!と叫んだようです。それでもこの意見なのはさすがです。そしてまさゆきさんが逆に今回はフェリー屋久島2にのっているところだったそうです。まきさんから電話で噴火したと連絡をうけて、表現的にちょっと吹いたという感じで、「あ、ちょっとガス抜きしてくれてよかったな」とおもっていたらこの騒ぎだったらしいです。

この日にまきさんや子ども達から前回の避難のときにもした、体育館でのスポーツを再度希望されたので、翌日にやることに。そこに上述したNHKの方がいらしてニュースになりました。子ども達は半端なく元気で、スポーツになりきっていない遊びを永遠にやりました。あまりにも避難所がマスコミに囲まれていたので、マスコミにばれていない体育館というのがすごい夢の国みたいな感覚はたしかにありました。そしてここまで(噴火から2日)の取材の多さと質問の雑さに子どもたちも全くいい印象はなく、というか大人たちの対応を子どもたちが完全に受け継いでいて、一人でもカメラを持った人が入ると、まったく空気感が変わってしまうのは確かでした。なかなか大変でしたね。
この日は、午後、温泉に招待されていたので、午前で帰ってお昼ご飯に。だいきは帰り、たくやが来ることになっていたので空港へ向かいました。

この後、また避難所をまわり、たけしさんやかずきさんにも会うことができました。二人は消防団のmtgみたいなのをしていて、やはりここでも一時帰島が話題になっていました。もっとも印象的だったのが、たけしさん。たけしさんすごいみためはいかついのに、「ノブんちの猫はだいじょうぶかね」といいながら指で噴火から今日が何日目か数えて、「三日目か、やばいかもね。のぶんちの猫のために帰らな。」とちょっと笑いながら言っていました。一時帰島がなければどうにもならないというのが島民の総意でした。

この子猫の兄弟が島に取り残されていたらしい


屋久島の避難所は、というか屋久島には人も物も基本的にあって、僕らが即座に役に立つことはありませんでした。しかし、こないことには何もわからないしそもそも心配で、この非常事態であるからこそ、常に現地の状況にフォーカスしておく必要があるというのが大きな学びです。今回かなり対応の展開がはやく、印象的なことがこの日の夜にありました。この日は僕たちは、屋久島でできていた関係性を活かして何かできることを模索しようと、いろんな方を引き合わせたり回ったりしていたのですが、夜ご飯を食べおわり、22時頃ニュースを見ていると、「一時帰島」の文字が。さっきまで一時帰島しなければといいながら、夜には前日や夕方の町長の判断とは変わって一時帰島が決定していました。これには驚きました。翌朝8時半出発でした。「26名中消防団が11名」とか「9名」とか報道がされていて、この帰島においても主役を担う島民の方々に本当に頭があがらないと痛感しました。帰島中に、避難所を訪れてみると、かなり普通の時間の流れがあって、皆さんが帰ってきた後はやはり行ってきた人はかなり疲れているようでした。家畜とペットの餌をして回るのはかなりの重労働だと思います。そして一人一人が自分が担当した任務の報告書を手書きで書いていました。なんだか末端地域はいわゆる自治を超えて、安全性の時点から主体性を求めざるを得ない人手の状況だと考えると、本当に社会のシステムがぼくの身の回りとは違います。そしてそれを支える女性陣。頭が上がりません。

僕はこの日の夕方に飛行機に乗って終電で月島に帰りました。

はっきり言ってまだ、この噴火の影響がどうでるのか、わかりきっていません。みなさまに会いに行って感じたのは二つでした。
・消防団がやっぱりすごい
・マスコミがたいへん
のふたつです。

僕が声を大にして言いたいのは、ニュースで一時帰島と騒ぎ、消防団員がなんとかかんとか言っていますが、あれがみんな、「お父さんたち」ということです。この地域を根底から支える意識は絶対に都市部に勝るもので、これが生きる力に直結しています。ぼくたち学生はこの男たちの力強さに惚れて口永良部島に通ってきたんだと再認識しました。そして、たけしさんが冗談のように「のぶんちの猫がやばいかもな」と言っていましたが、彼らは本当に当たり前に猫の命を気にかけて一時帰島しています。この温かさ、というか優先順位のつけ方は、ぼくの脳みそにはインプットされていません。もしぼくがこの立場にいたら、もっと複雑に考えすぎて、なにか大切なものを見失ってしまうと思います。そして大切なものを失ってしまう意思決定をすると思います。これを学びに通っていたんだと再認識しました。そして決して無くしてはいけないものだと再認識しました。そしてこれをぼくは都市部に普及させたいと強く思っています。

今後ぼくたちにできることはまだわかりません。ですが、口永良部島のみなさんが島に帰りたいと思っている以上、確実にできることがあるのは間違いありません。これからも口永良部島のみなさんと活力を投げあってボールをどんどん大きくしていきたいです。本気でいきます。

よろん坂によれなかったことが悔しいですが、また夏に行きます。

以上です!