京都の清水寺に行った感動。十日過ぎた今でも余韻が残ってます。
単なる旅行で観光地を見てきましたといった感じではなく、本当に大切なことを掴めた気がします。
掴めたと言っても、しっかりと握り締めてここにあるというのではないのです。
手応えがあったというのも、また、違います。
どちらかと言うと、正に「水の如く」するりと手を離れてはしまったけれども確かに感触はあった、と言うほうが近いです。
かといってそれでお終いというわけではなく、また、手に触れる機会はあるだろうけれども、決して前とは同じではないのだ、といったほうが実感したことに近いです。
改めて「水」という文字を眺めてみると、あらゆる方向に変化する形を表した究極の型なのだと思え、感慨深いものがあります。
古くから「ゆく川の流れは絶えずして」「上善如水」「兵形象水」などと言った言い回しに込められた、普遍的な流転の様を身に浸みて感じます。
寺務所の一角に清水寺貫主・森清範氏の本があったので、その中の一冊『水は知的生命体である』、をその場で購入して読んでみました。
工学博士の増川いずみ氏とダイアモンドカッティングの専門家であり「流水紋」の創作家でもある重富豪氏との鼎談です。鼎談なので口語体ですから、論文や随筆と比べると、全く予備知識が無くても読みやすいです。
また、三者それぞれの立場からの視点、違う方向からの見方から、共通するところが浮かび上がってきているので、強く確信が持てるのです。
サブタイトルの「そこに意思がある」も、実感が持てますね。
生命と言うものも、何となくではありますが、こんなものなのかなと思えてきますから不思議なものです。
こんな風に少し見方を変えるだけで「水」を表す「氵」(さんずい)や「冫」(にすい)「雨」(あめかんむり)を含む漢字も、その「ヽ」から、滴りの音色まで伝わってくるようで、味わい深いものです。
身体の健康もこうした視点から見てみるのも良いのでないでしょうか?血液も含めて身体は、水とその流れで出来ているのですから。