毎年恒例、清水寺の今年の漢字は「新」に決定しました。意外と地味な選択ですね。保守的な発想そのものが世情を反映してるように感じます。 

昨年の「変」くらいのインパクトは欲しかったです。現状打破には、やはり「斬新」の「新」でありたいところです。

さて「斬新」の二文字の中の「斤」ですが、訓読みは「おの」と、そのまんまですね。大昔、毎日刃物で木に刻みをつけて日を数えたあたりから来ているのではないでしょうか。

ちなみに数字の「十」「七」「〆」として区切った刻みのかたちが由来だそうです。

そう言えば「切」も「七」を含みますが関係ありそうですね。調べた範囲では「七」が偏にある字はこの「切」しか見つかりませんでした。どうやら「七偏(しちへん)」と言う部首も無いみたいです。もしご存知の方がいたらお教え願いたいです。

中国語で「棒球」と言えば「野球」のこと。「棒」とは言うまでもなく「バット」のことでしょうが、対して「野」は「FIELD」を示す言葉。             自らの手で何とかするのか、全体から洞察するのかの違い。価値観の違いが優先順位の違いとなるのですね。こんなところにも国民気質があって面白いです。

英語では「BASSBALL」ですから直訳すると「塁球」ですね。そうはならなかったのは国民性というよりも民族性と言えるかも知れません。

点数を取るポイントに関心が強いと、やはり「BASS」に着目しますからね。

さて、「塁」の字ですが、元々は「壘」の略字。同じ字の重なりを「ゝゝ」で省略するお馴染みの手法です。

語源はおそらく「俵を積み上げる」イメージかと思います。なので本当は違うのでしょうが、バッターが打席に立って各塁を意識している図にも見えてくるので不思議です。

こういった偏見、誤解、勘違いから、言葉や文字はいつの間にか、意味も形も変化していくのでしょうね。

京都の清水寺に行った感動。十日過ぎた今でも余韻が残ってます。 

単なる旅行で観光地を見てきましたといった感じではなく、本当に大切なことを掴めた気がします。

掴めたと言っても、しっかりと握り締めてここにあるというのではないのです。

手応えがあったというのも、また、違います。

どちらかと言うと、正に「水の如く」するりと手を離れてはしまったけれども確かに感触はあった、と言うほうが近いです。

かといってそれでお終いというわけではなく、また、手に触れる機会はあるだろうけれども、決して前とは同じではないのだ、といったほうが実感したことに近いです。

改めて「水」という文字を眺めてみると、あらゆる方向に変化する形を表した究極の型なのだと思え、感慨深いものがあります。

古くから「ゆく川の流れは絶えずして」「上善如水」「兵形象水」などと言った言い回しに込められた、普遍的な流転の様を身に浸みて感じます。


寺務所の一角に清水寺貫主・森清範氏の本があったので、その中の一冊『水は知的生命体である』、をその場で購入して読んでみました。

工学博士の増川いずみ氏とダイアモンドカッティングの専門家であり「流水紋」の創作家でもある重富豪氏との鼎談です。鼎談なので口語体ですから、論文や随筆と比べると、全く予備知識が無くても読みやすいです。

また、三者それぞれの立場からの視点、違う方向からの見方から、共通するところが浮かび上がってきているので、強く確信が持てるのです。

サブタイトルの「そこに意思がある」も、実感が持てますね。

生命と言うものも、何となくではありますが、こんなものなのかなと思えてきますから不思議なものです。


こんな風に少し見方を変えるだけで「水」を表す「氵」(さんずい)や「冫」(にすい)「雨」(あめかんむり)を含む漢字も、その「ヽ」から、滴りの音色まで伝わってくるようで、味わい深いものです。


身体の健康もこうした視点から見てみるのも良いのでないでしょうか?血液も含めて身体は、水とその流れで出来ているのですから。

前回、清水寺のことを書きましたが、本願寺にも行きました。浄土真宗の本山、南無阿弥陀仏のお寺です。

まだしばらく先ですが、2012年(平成24年)の「親鸞聖人750回大遠忌」にむけての掲示物が目立って印象的でした。


スローガンは「世の中安穏なれ」 


心打つものがありました。意味を噛みしめてみると、「南無阿弥陀仏」に込められた願いを今現在の解釈ですると、こうなのかなと思えてきます。

「安穏」という言葉には、悲しいかな安易に使われがちな「平和」や「幸福」とはまた違った、悠久の時間を感じさせる何かがある気がします。「あ」で始まり「ん」で終わるのも、偶然とは思えません。

面白いなと思うのは「阿」の字で始まる阿弥陀如来を大切にしてきた浄土真宗が「安」の字で始まる「安穏」を無数にある言葉の中から拾い上げたことです。


カタカナ(仮名)の「ア」の元である「阿」と、ひらがな(真名)の「あ」の元である「安」と、ふたつを並べてみると、個々でもあり、対でもあり、ふたつでひとつでもある存在がイメージとして浮かんできました。

言葉では説明できない大切な何かが記憶の底から湧き上がってくる感じです。そこには何かの「願い」はあるのは確かでしょう。嘘のない世界の端っこを垣間見た気がします。

また、言葉を超えたところにあるからこそ、言葉の力と文字の力の偉大さを改めて実感しました。言葉と文字があって気づけたことですから、ありがたいことです。

深読みしすぎかもしれませんが、決して誰かを傷つけたりする話にはならないことなので、これで良しとしましょう。

 毎年恒例となりました12月12日の漢字の日に発表される「今年の漢字」ですが、果たして2009年は、「*」に何が選ばれるでしょうかね。発表まで丁度一ヶ月。今から楽しみにしております。

 本日、仕事の関係で京都の清水寺に行って参りました。夜間ライトアップが今日からということもあるのか、賑わってました。スケジュールの関係でライトアップを見ることはできなかったのが残念でしたが、演出なしでも清水寺の美しさは充分に満喫できました。

 「啼くよ鶯、平安京」の794年(延暦13年)より先駆けた778年(宝亀9年)に創建されただけあって、やはり別格ですね、清水寺は。歴史的背景をみても偉大さを感じます。

 やはり、清水寺と言えば「清水の舞台」ですが、後ろの方に、「今年の漢字」には何が相応しいのかといったアンケートがあったので、清き一票を投函してきました。別にランキングで決めるわけではないかと思われますが、自分自身が思うところの一字とその理由を書くといったものでした。どの字を書いたかは発表後のお楽しみということで御勘弁くださいませ。

 昨年は「変」で、その前が「偽」でしたね。この大胆さ大好きです。過去にも「災」「戦」「毒」「倒」など、どちらかと言うとマイナスイメージな字を選んでることが多いみたいですが、現実に眼をそらさない姿勢は希少ですね。見習いたいものです。