(アメリカ編)
時は流れて、1974春。俺の環境もずいぶん変わっていた。
嬉しいことに家族が一人増えていたのだ。
嫁さんと一緒に二回目のアメリカ生活に向け、懸命に働いていた。
俺は、一日に3つの仕事をこなした時期もあった。
早朝:5:00から汐留の駅で荷物運び。昔、東京への鉄道貨物は汐留の駅に集積されていた。それを各地域ごとに区分けするのである。
すごい肉体労働。
通常:サラリーマンとして商社勤務。
2輪、4輪車の輸出業務。通常は貿易事務で、送り状の作成と現地デイーラーとの交信が主な業務でした。
当時は、10kg くらいの重さのアンダーウッドというタイプライターを使っていました。
海外との交信方法はテレックスが主流でした。コンピューターのない時代ですから、テレックスは便利でした。この言葉はもう死語ですね。
貿易商社での仕事は新鮮で面白かった。実務英語の勉強にもなったなー。
夜、商社の仕事を終え、秋葉原のキャバレー「ハワイ」でボーイとして11:30まで仕事をした。酔っ払い相手だったけど、割り切って仕事をしていた。
こんな状態が何カ月も続き、スエーデンの養鶏場を思い出しながら良く働いた。
1974年5月、いよいよオハイオに戻った。
米国への渡航自体が簡単ではなかった。1ドルが330円。海外持ち出しドルが一人1,000ドルと厳しい制限があった時代でした。
2年ぶりに会うフイルの家族には大歓迎で迎えられた。また、フルタイムの居候である。
俺と妻は、一旦ボストンを中心にアメリカ東部をバス旅行して、アメリカ建国の歴史的遺跡巡りをしました。
ボストンの港
アメリカ独立のきっかけになった港 Boston Tea Party
ボストン名物のロブスターをほおばっているところ。
オハイオに戻ると、直ぐに大学の夏期講座に申し込み、あわただしく通学を始めた。
音声学、スピーチ、社会学を中心に登録したが、どの科目も新鮮で興味深い物ばかりで心底勉強に集中できた。
妻もボランテイア団体(教会)が主催するアダルトスクールに入学した。
これは、米国に住んでいるものの英語を読み・書き出来ない人のための夜間学校だった。
こんな感じで俺たち二人のアメリカ生活は順調に歩み始めた。
週末には、近くのエリー湖でバーベキュウをしたり、友人にも恵まれ、余裕のある生活だった。
米国五大湖の一つ、エリー湖にて
やがて、秋が過ぎ、雪の季節になると事態は急変していった。
フイルは大型トレーラーの運転手だったので、冬期間は仕事量が極端に減少してきたのだ。収入がなく、食料品を簡単には購入できないほど生活はひっ迫してきていた。
ある時は、サッポロ味噌ラーメン(当時45円)を豚肉とキャベツで数時間煮込み、量を増やして家族全員で食べるほどまでになってきていた。
俺は大学で何でも買って食べる事が出来たが、妻の学校は週数回だけだったので、簡単に買い物は出来ない状態だった。
本当に申し訳なく思っている。
この切迫した状態を教会のスイスター(尼さん)に相談したところ、すぐ行動開始して小さな一軒家を無償で貸与してくれた。
次に、食料品店へ連れていき、アルコール品以外は好きな物を好きなだけ買っていいよと言われた。
普通はあり得ないことだが、これは妻と一緒に経験した本当の出来事です。
小さいながらもアメリカ人の善意溢れる温かい家。
時々、週末に見ず知らずの人が訪ねて来て「これで好きな物を買いなさい」と言って小切手を置いて行く。
まるで映画のストーリ-みたいに感じる人もいるでしょう。
本当に起こった出来事です。
まるで神様に見守られながらのアメリカ生活のようでした。
寒いオハイオの冬が過ぎ、時期的にそろそろ帰国が迫ってきたころ、旅行代理店にロスから成田への切符を依頼しておいた。
ところが、帰国直前の土壇場である事件に巻き込まれていたのです。
妻の切符が持ち逃げされ、転売されてしまっていたことが判明。
詐欺に引っかかったのである。
青天の霹靂とはこのことかと思った。
ここでまたスイスター(尼さん)の出番です。
相談した翌日、オハイオ州選出国会議員事務所へ連れて行ってくれました。
議員秘書は事情を全て把握しており、「帰りの切符は必ず用意してあげますからね」と言って早速ワシントンDC と連絡を取り始めました。
数日後、スイスターから妻の航空券を手渡されたときには涙が出るほど感激しました。
モウジャー議員秘書、リットマン氏の名刺
「アメリカってすごい国だなー」と身震いするほどのありがたさを身に染みて感じた瞬間でした。
単なる幸運だったとは全く思っていません。
いい人達に巡り会えたのです。
すごい人達です。
一旦関わると徹底して最後まで付き合ってくれます。
同時に、外国人に悪い印象を持って欲しくなかったのでしょう。
それが真の愛国心かも。
関係者に厚くお礼を述べ、いつものグレーハウンドバスで一路暖かいフロリダを目指し、その後90度西へ転じる。
目的地はロスだが、その前にどうしても行ってみたいところがあった。
グランキャニオンだ。
長―い、長―いバス旅行の後、ついに目的地へ。
あの雄大な絶景に圧倒されると、俺なんかちっぽけな存在に思えてしまう。
なんか不思議なパワーをもらったような感じがした。
グランドキャニオン
1975年春グランドキャニオンにて
ロスに着き、日本レストランへ入ったが、感激のあまり食事が喉を通らなかった。
ついに妻と一緒にバスでアメリカ大陸を往復したのだ。今思い出してもあの時の嬉しさは脳裏を離れない。
最後の経由地ハワイへ。数日のんびり過ごし、旅の疲れも癒えてきたころ大問題発生。
予約便の時刻に空港へ来たのは良いが、俺たちの切符では搭乗出来ないという。
またもや青天の霹靂が発生。
搭乗係員では話にならないので、タイ王室航空ホノルル支店長と直に話をするように事を進めた。
俺:米国政府が保証して発行してくれた切符なのに無効だというのですか。それですと米国政府を侮辱するということになりませんか。
支店長:無効ではないが、予約の便では座席が確保できません。
俺:米国政府が予約して座席も確保してあるはずだ。
支店長:そのような連絡は頂いておりません。
俺:米国政府担当者に確認します。
あなたの氏名、年齢、ハワイの住所をお知らせ下さい。
支店長:しばらくお待ちください。
10分後:ご安心ください。座席を何とか確保しました。
俺:あなたは融通性のある素晴らしい支店長ですね。ありがとう。
First Class と書いてあります。(タイ王室航空会社)
タイ王室航空
フアーストクラス
搭乗券
座席番号
4A
ご搭乗時にお見せください。
機内前方(左)の階段からご搭乗ください。
(1970年代、タイ王室が経営していた航空会社が格安で大繁盛していた時期がありました)
何とまー座席は一等席だった。至れり尽くせりというか、お土産までもらってしまった。支店長に感謝ですね。俺も必死に食らいついた。
謎が一つ。44年前にもらった航空券は、一体だれが支払ったのか?
これ以降、アメリカには18回くらい行くことになる。