広島市在住の私の父(82歳)が認知症の傾向を見せ始めてからもう4年くらいになりますが、私の目から見て案外変わりません。むしろおかしな事は言わなくなっているように感じますが、それは脳の働きが鈍くなったからなのかもしれません。認知症というもの、問題は周囲で世話をし面倒を見る家族にあるもので、家族が認知症になってしまった当人に対してどう接するか、感じるか、それが大事なのではないかというのが私なりの結論です。記憶という機能を失った私の父ですが、当人はそれを悩んだりしていない、いや、悩むという感情も失っているのですが、人間にとってネガティブな悩むということが無くなったのならむしろ幸せなのかもしれません。ただ家族は悩まない父を以前の父と同じ人間として捉えづらい、そこで家族が悩むか悩まないか、それが認知症という病気への接し方において大きな分岐点だと思うんですよね。

 私たち家族は悩まないという方向に進んでいます。私の母の内心は分かりませんが、私と私の弟は悩んでいません。父が認知症以外の病気や体の不調を見せない今、ただ毎日が平穏無事に過ぎて行ってほしいと思っています。そうしている日々、母は父の面倒を見なくてはならない立場でありましたが、昨年は骨粗鬆症由来の骨折をしたり、今年になって心臓の不調が発覚しカテーテル手術をしたり、ペースメーカーを入れたり…生命の危険が差し迫っているのは母の方です。その母の通院や入院にあたっても世話をする人が必要だったわけですが、その世話をした量を順位で表すと、1位私の弟(47歳独身です)、2位私の妻(社長)、3位私、4位私の認知症の父…父はもちろん何の役にも立ちませんが、生きているだけで母が安心するので存在していることが大事です。むしろ私なんて仕事を口実に面倒事から逃げているような状態で実質4位、弟や妻(社長)にはまったく頭が上がりませんよ。

 …私の弟ですが、大学を中退し友人たちと会社を興したという経歴があります。現在の私も自分で興した会社で働いていますので、このへんの気質はやはり兄弟なのでしょうか。しかしながら弟たちの会社はとっくに休眠・解散状態で、弟はその後いくつかの職を経て、結局今は大分県国東市(私の父の実家)の片田舎で、なんとも説明しづらいのですが、色々やりながら食いつないでいます。私の会社の仕事も手伝ってもらっていますので、多少の給料を支払ってもいます。

 そんな弟ですが、私の両親はいつも弟の行く末を案じていました。私の両親世代に顕著だと思うのですが、名の有る大学の行き、名の有る企業に入り、きちんとした人と結婚し子供を作りマイホームを持つ…みたいな人生を子供に求めますよね。それはそうできたらそれが良いに決まっていますし、私もそのような人生を否定はしませんが、もしも私の弟がそのような人生を送っていたとしたら、両親の世話が必要になっている今、どうだっただろうか…とよく考えるんですよね。弟が仕事や家庭の都合で両親の面倒なんて見られなかったら、私がもっと両親の世話をしなくてはならないか、あるいはお金を使って誰かに依頼したりしなくてはならなかったでしょう。絵に描いたような人生は、やはり絵に過ぎませんよね。人間、他人の人生に期待をかけるということの無邪気さと無責任を戒めないといけませんし、いま私の両親は実の次男に世話をしてもらえて幸せなはず、期待にはまるで沿わなかったけれど次男(私の弟)には感謝を尽くさなくてはいけません。人生は幸福や不幸のどちらか一辺倒に偏っているものではないと思わされますね。