あけましておめでとうございます。卯年ですね。一年の計は元旦にありと言いますが、私の今年の抱負はやったことのないこともやってみる、コレです。それは新しい趣味や習い事などではなく、もっと瞬間的なもの、たとえば食べたことのないものを食べるとか、歩いたことのない道を行くとか、今風に言うところのルーティンなるものをなるべく持たない毎日にしたいと思っています。それは取りも直さず昨年までの自分の毎日と同じようにも思いますが、今年からはもっと意図的に、意識的にそうしようと考えています。なぜなら、私も50歳となり自身の衰えをヒシヒシと感じるんです。体力ではなく、脳味噌の働きが衰えています。やらなくてはならないことを忘れたり、やらなくていいことをやってしまったり、そしてそんな自分にイライラしたり、仕事の取引先にキツく当たったり、明らかに10年前の自分はこんなではなかったんですけどね。
…この年末年始に実家に帰省した際に実感しましたが私の父はボケ老人と相成りました。時間の感覚や家族の状況など、普通の人ならまず疑問を持たないことに引っかかったりためらったりする場面がありますし、今後増えるでしょう。幸い徘徊するとか怒りっぽくなったということはなく、他人から見ればテレビのクイズ番組でトンチンカンな解答で笑いを誘う老人みたいなもんです。父はあまり物事に興味関心を持たず、車も持たず酒も酔うほどは呑まず、趣味的なことを始めても深く追求することもなく、ただ平凡に日々テレビや新聞を眺め、節約やケチケチすることを心掛ける小市民的生活を繰り返し、また価値観や偏見もごくありふれた人間でありました。そのくせ女性に対する興味を隠さない助平親父な面もあり、私は自分が生きる上でどこか、いえ、あからさまに父を反面教師にしています。私は父がボケたのは家でのんびりと過ごすのが大好きな性分のせいもあると思っています。
父のようにボケたくないから、日々をアクティブに過ごせば良いと考えている訳ではなく、それが私の性分なんですが、やはりボケた父を見ているとああはなりたくないと親不孝な考えを持っています。しかしながら、これから私は一番書きたいことを書きますが、81歳の父がボケたことに何の問題があるでしょうか。肉体が衰えれば脳だって衰えて当然、父がまだ60歳くらいで今の状態なら病気として扱われてもしょうがないでしょうけど、もう81ですから諦めてよいと思うんですよね。私の目から見てつまらない人生を過ごしたように見える父ですが、それは本人が悔やんでいなければ何ら問題は無いこと、私は父は他人を傷つけたりしない穏やかな人間だったとも思いますし、本来人間はそれだけでかなりOKですよね。どんなに能力に長けて多趣味で他人からみて魅力的な人でも、他者を傷つけながら生きる人ではダメです。私は父のような老人にはなりたくないなんて思う反面、果たして父のような穏やかな人間であっただろうか、そしてこれからはそうありたい、そんな考えにたどり着くことができ、なんだか二兎を得られたような気分になりました。今年も仕事に遊びに一生懸命頑張ろうと思います。