そうなんです…このパターン
けっこう何度も起きるんですよね…(^_^;)
これは基本的に真面目で自分を責めがちな人向きのお話なんですけども
そうじゃない方も、もし良かったら興味が続くところまで読んでみてくださいね。長文です。
まず何か出来事が起きて
相手に対して、ふとモヤッと感を抱く。
でもいきなりそれを相手にはぶつけないし
自分としてもあまり自覚はありません。
でも少しずつ、ふとした拍子にモヤッと感を抱いている自分に気付きます。
「あ…またこの感じ…」と徐々に自覚しはじめ、次第にはっきりした不快感に変わっていきます。
そのうち「私、この人の○○を不快に思ってるんだ…」とわかってきますが
だからといって「あなたの○○が不快です!」とストレートに伝えることはあまり得策とは言えませんので、いちおう我慢するわけです。
でもそれは感情を押し殺してるだけなのでストレスが溜まってきます。
顔を合わさないように自分で調整できる相手ならいいのですが
だいたいそういう相手に限って、イヤでも顔を合わせないといけない場合が多いです(苦笑)
そうして日に日にモヤモヤが溜まっていくのです。
そしてある日「もう無理!なんなのコイツ!」と我慢の限界を超えてブチ切れます(;^_^A
※我慢に我慢を重ねる人もいますが、その場合は別の現れ方として心身の不調などいろいろあります※
やっと吐き出せて一時的にはスッキリするけど、人によっては次第に罪悪感っぽいモヤモヤを抱き始めるのです。
「あんな言い方しなけりゃよかったな…」
「嫌なヤツだと思われたかな…」
「言わない方がよかったかな…」
「いろいろヤバくなるかな…」
でね。
これって勘違いしやすいところなんですけど、すっっごく大事なところでもあるんです。
「どっちかにせえ!」とツッコミたくなるこの状況は、自分が言いたくて言ったんだからゴチャゴチャ考えるなって話ではあるんですが。
でも違うんです。問題はそこじゃない。
じゃあ何かって言うと
「それでいい」
という状態に持って行けというメッセージだと思ったんです(あくまでも個人的な感覚として…)
「私はなんてめんどいくさいヤツだ…」と自分を咎めるのはもうやめようよっていうメッセージ…
自分が何をどう思ってもとにかくオールOK!というスタンスに変えていいんだよ、ってことかなと。
まじ?そんな都合のいい話?と思いますよね。でもそうなんです。
これ、ひっかけ問題だと思います。
つい自分を責めてしまう真面目な人に限って「まあいいや」ってなかなか思えません。
「そういうのはネガティブ感情だから、手放してポジティブにならないとまたネガティブなことを引き寄せてしまいますよ」
ってのがいかにも正解のように感じますが、実はそうじゃないと私は思ったわけです。
「そんな自分でいいよって言ってあげて」って言われてるんじゃないかなって。
自分の内部において「変えられる部分」と「変えられない部分」があることを、まずはしっかり認識する必要があるんですけども。
それでいけばこの場合の「変えられない部分」は「モヤモヤを感じてしまうこと」ですよね。
つまり感情の部分。
ここはどうあがいても意図的には変えられない領域です。
そして「変えられる部分」は、「それをどう解釈するか」という部分です。
つまり理性や思考の部分。
ここは自分で選択できるし、容易ではありませんが変えることは可能です。
我慢してもモヤモヤ・吐き出してもモヤモヤ、という状態は
「我慢しては相手の言動に腹を立て」「吐き出しては自分の言動にダメ出ししている」わけです。
つまり、自分の不快感をなくそうと思って吐き出してみたものの、解決するどころか今度は自分に対しても違和感を抱き始めた。
それで「自分はやることなすことイケてない…」とため息をついてる感じ。
でも、これが起きたのは落ち込ませることが目的ではありません。
「自分で自分を幸せにするために、そういう解釈をもうそろそろ変えようね」という課題が与えられたと同時に
自分を変えるタイミング、変容するきっかけをもらった状態だと思うのです。
だから答えはこう👇
「こんなめんどくさい考え方をする自分でもいいんだよ」と自分を許してあげること。
でもこれはまだ第一段階である「自己肯定」の状態で、私が個人的に目指すところは自己受容の状態。
つまり
「こんなめんどくさい考え方がいいか悪いか知らんけど、これが自分だから仕方ないね」
と笑い飛ばせるところに到達するのが、私としてはすっごくいいなと思うわけです。
自己受容とは、事実をありのままに受け止め
それに対して一切ジャッジしない中庸のあり方です。
それが良いとも悪いとも決めず、ただ「そうである」で完結できる意識。
私が個人的に「すごく素敵だなあ✨」と思うあり方です。
自己肯定は、自己否定よりマシと言えばマシなんですが…個人的な感覚で言うと、否定であれ肯定であれ、結局のところは単なるアンバランスなんだと思うようになりました。
それよりも私は、否定でもなく肯定でもない自己受容(無為自然とか清濁併せ呑む的な感じ)が断然好きなのでそこを目指しているのです。
「良いも悪いもない。ただ、そうである」
このあり方は本当に本当に気持ちが楽です。
ちゃんとできるかどうかは別として(苦笑)
「これは良い」とか「これは悪い」とか
その二元性の考え方に偏るとどうしても思考が忙しくなります。
起こることすべてに対して無意識にジャッジを下してしまうからです。
「この人の態度は良くない!だからこの人は非常識だ!」
「あの人は親切にしてくれたからきっといい人だ!素晴らしい!」
「私はいつも他人の顔色を気にするからダメ人間だ…」etc…
要するに、自他の言動をいちいち「よろしい」「よろしくない」と、自分の物差しで善悪に振り分けていく行為です。
「これは良い」と決めたと同時に、その反対側では「これは悪い」がひそかに生まれています。
このことに気付かないままでいると、あらゆる現象に対して無意識で善悪裁判を行ってしまいます。
そして無意識に「これは悪い」と認識したものに対して、正義感という大義名分のもと「わからせなければ」「懲らしめなければ」という感情が湧き出します。
それは、悪と定めた対象を非難・攻撃することが正しいことだと信じて疑わない価値観。
これがつまりは深いところで自己否定と繋がっていると思うのです…
だから私は、最終的に目指すところは自己受容でありたい、と考えるのです。
自己受容…
「それで良い」という自己肯定に対して
「どちらでも良い」という感じの中立的な考え方。
「それが自分だからどうしようもない」「どうしようもないから放っておくしかない」
何となく伝わりますでしょうか、投げやりな感じでは決してないんです。
「良い」にも「悪い」にも偏らないゼロ地点に意識を持って行けるかどうか?
人生って、ここに至れるかどうかっていうゲームなのかもな~と思うんですよね。。。
もちろん「え?そんなこと昔から普通にできてたよ?」って人もいるでしょう。
でも私のような頑張り屋タイプ・関わりたがりタイプ・ついついやってしまうタイプは
がんばらないことが意外にも難しいと感じることが多い。
※そこまでやらなくていいよ、とよく言われるが、自分としては当たり前のことを当たり前にやってるだけなので戸惑うし、それをやらないのは逆に気持ちが悪い。でもこれが「良い」ということではなく、これはこれで弊害があるのです※
手を抜くことよりも一生懸命やることの方がよっぽど簡単で自然なのです。
逆に、頑張り屋タイプの人にとっては何の努力もなく当たり前のようにできることが
反対タイプの人たちにとってはなかなかできないことだったりもします。
得手や不得手、学ぶべき内容は人によってまったく異なりますから「そんな当たり前のことがなんで難しいの?私は普通にできるのに」という次元の話ではないのです。
話を戻すと。
●ネガティブをダメだと思う制度をやめる(笑)
●それでもいいや、と自分を許す
●「自分のここがダメだ…」と思う必要はない
●自分の欠点(だと思い込んでいる部分)を問題視しなくていい
●ネガティブ感情をポジティブ感情に…とか、無理やりどうにかしようとしなくていい
これらが今の時点で私が思う、人として自然なあり方なのかなと。。。
答えを知ってみれば簡単なこと…
「どうにかしなくちゃ!」とがんばるより、何もしない方がはるかにラクですよね。
それなのに人間って不思議なもので、ラクするのがベストとはなかなか思えません。特に真面目な人
なぜか「どうにか」しようとする。なんとかしなきゃと考える。気が進まないのに無理やりがんばってしまう。
その、自力で状況を無理やり変えようとすることをもうやめなさいということなのかなと…
自分の心がノーと言っているのなら、たとえ他人にとってはイエスであっても、自分にとっては間違いなくノーなのです。
でも、生まれてこのかたあまりにもたくさん他人の価値観を刷り込まれすぎて、自分の心の声が聴こえなくなっているのです…
※だから他人のイエスが自分にとってもイエスなんだと思い込んでしまう※
何が起こってもそのことに対して抗わない。
流れに身を任せる。変にがんばらない。
でも、何もせずにただ傍観してろってことじゃなくて、その場において自分がやるべきことをただ粛々とやるだけなのかなと。
「たった今」「この場において」やるべきことだけに集中する…歯磨きも、歩くことも、食べることも、それだけに集中する。
気になることがある時は、歯を磨きながらでも歩きながらでも食事をとっていても、そのことばかり考えてしまいます。
それは「たった今」「この場において」やるべきことに集中できていない状態です(-""-;)
つまり気が散っている状態…気を自分の中に留めることができず、エネルギー的にも弱い状態です。
そんな状態が続いたまま事態が好転することは、残念ながらあまりありません…
気をしっかり蓄えるためにも、「今ここでやるべきことに集中しよう」という意識を持つだけで、何かが少しずつ変わります。
「できるできないは別として」で構わないのです…「やる!」という揺るぎない気の力…気力が自分を引っ張り上げてくれるのです。。。
モヤモヤしても構わない。
そんな弱い自分を否定せずに優しくハグしつつ、その一方で強い気力を持った自分を発動する。
「どっちか」じゃなくて「どっちも」です。
「弱いだけの自分」でもなく「強いだけの自分」でもなく「弱くもあり、強くもある自分」です。
弱さも強さも持っている。ネガティブもポジティブも持っている。長所も短所もある。
どちらも分け隔てなく自分の中に存在させ、そのままの現状を受け入れる…
このプラスとマイナスが中庸を生み出すと思っていますし、陰陽の統合なのかなと思うし、内面的な女性性と男性性の調和かも、と思っています。そしてそれが現実の世界に反映するということなんですよね…
ネガティブ・マイナス・陰の部分を消す必要はないと思います。
ポジティブ・プラス・陽だけになろうとがんばる必要はまったく無く
むしろネガティブを認め、受け入れ、癒し、愛そうとするひたむきな想いが「無条件の愛」のスタート地点…
ネガティブ(と思い込んでいる部分)を排除するのではなく、それを受け入れようとする姿勢が、人生でいろいろ起きる出来事に対する人間本来のスタンスなのかな、と思ったりします。(できるできないは別として)
ちなみにですが、
「そんな自分を変えたいのに、変えたい部分を許してたら変われないのでは?」
という疑問も湧いてくると思いますが(;^ω^A
でも私がいつも思うのは
真理ってかなりの確率で「え、そっち!?」っていう内容が多いのです。
つまり私たちが考える正しい答えと、宇宙原理が働く仕組みは逆であることがすごく多いんです。
モヤモヤする自分を変えたいのに
モヤモヤするのを許してちゃ話にならない、と思ってしまいますが
モヤモヤする自分を許せない価値観を握りしめてるからこそ、モヤモヤする出来事を引き寄せるという仕組みです。
だから、モヤモヤしたく無いのなら、モヤモヤした時に「それでもいいよ~」って許すことがポイントなんだと思います。
しかしこうして活字にするとなかなか伝わらないニュアンスもありしますし
すべての人にこのパターンがあてはまるというわけでもないでしょうから、読んでる方にはあくまでも参考程度に捉えていただきたいのですが
どうしても自分を責めてしまって苦しんでる方がいるなら
どんな考え方をすれば少しでも気持ちが楽になるのか、その方法を自分の体験をもとにして時々ブログに綴っています。
もっと楽観的に考えられる性格だったら人生どんなに楽だろうと思います。
でも、こういう性格に生まれついた。
この性格で生きていくしかない。
だったら嘆くよりも受け入れることが大切なんだな。
もっと言えば、どうすればこの性格を強みに変えられるのかな、って…
そんなことを日々考えながら生きています。
その答えのひとつが、解釈や考え方を変えることかなと思ったのです。
それは違う言い方をすれば
「価値観を変える」ということ。
今までダメなものだと思っていたものでも、考え方を変えるだけで宝に変わることはよくあります。
役に立たない不要品だと思っていたものを、解釈ひとつですごい武器に変えることができる。
状況を何ひとつ変えずとも、自分の解釈を変えるだけで対象の価値は簡単に変わるのです。
その最も大きく大切な対象が「自分」です。
いろんなことを劇的に変えたければ、まず自分に対する解釈を変えることかなと思います。
自分の言動に対してあれこれ思わなくなってくると、他人の言動に対してもあれこれ思わなくなっていきます。
脳は自他の区別がつかないと言われているからです。
もちろんその逆もあり
「人を呪わば穴二つ」と言われるように、他人を憎んでいると、自他の区別がつかない脳によって自分を憎んでいる状態にもなるので、お墓の穴がふたつ要りますよってことです。
結局…
自分も他人も無いのでしょう。
その区別をしているのは自我だけで
人知の及ばない次元では
その区別はまったくないのかもしれません。
他人を許したかったら、まずは自分を許してあげて!ってことでしょうね。
自分を許す…
それが自分を愛する第一歩だと思うのです*・゚・*:.。.*.。.:*・☆