山紫水明(さんしすいめい)
過日、頼山陽について記しました。
頼山陽は広島藩で自分が置かれた境遇に満足することができず、
学者としての名声を天下に轟かせたいとの発露から京都へ出奔。
京都三本木に居を構えて東山を望めるところに「水西荘」を営み、
梁川星巌、江馬細香、篠崎小竹ら多くの文人らとも親交しました。
そして、彼の代表作となる『日本外史』が書かれ、
この書が江戸幕府の老中だった松平定信に献上されました。
すると定信から「理屈にかなっている」との高い評価を受け、
『日本外史』と彼の名声は広く人口に膾炙することになりました。
そんな名声を得た頼山陽ですが、家庭人としてはイマイチで、
とにかく無類の酒好きということも相まって、
のちに安政の大獄で囚われのみとなった三男・三樹三郎の誕生の際には、
悪ノリそのままに「酒八(さけはち)」と名付けたくらいです。
祇園に同名の酒好きの太鼓持ちがいたことで、流石に家族からも大反対を受け、
二転三転と名前が変わり、最終的に頼三樹三郎と落ち着きました。
ちなみに、既述の「水西荘」については、
頼山陽の書斎からはるかにのぞむ比叡の山なみと鴨川のせせらぎが見られ、
自然の風景が清浄で美しいことから「山紫水明の処」と評し、
そのまま書斎の呼び名も「山紫水明処」に変えたというのです。
さて、この「山紫水明の処」という言葉は、
日の光の中で山は紫にかすみ、川(鴨川)は澄みきって美しいことの意。
全国各地の小京都と呼ばれるところが、
「山紫水明」という言葉を用いていますが、
前述の「自然の景色が美しい」という意味で用いられる表現です。
そんな「山紫水明処」は現存していますが、
その窓からは東山が実際に紫色に映え、鴨川の水も澄んで見えるそうです。