善悪両極端の評価はいかに | 龍馬と夢紀行

善悪両極端の評価はいかに

幕末で重要な役割を果たした人物の中で、

評価が分かれる一人に挙げられるのは時の大老・井伊直弼。

事実、その業績はこれまで善悪両極端に評価されてきました。

 

本来、表舞台に立つことなどなかった人物でしたが、

嘉永3年(1850)長兄の死により13代彦根藩主の座が転がり込むと、

その3年後にはペリーの来航で相模警備を命ぜられました。

 

そして安政5年(1858)には大老に就任することとなり、

祖法の鎖国策をすて開国の道を選び、日米修好通商条約を無断締結。

また将軍継嗣問題では血統論から紀伊の徳川慶福(家茂)を推し、

一橋慶喜を推す徳川斉昭らと激しく対立。

反対する大名・公卿・志士らを弾圧(安政の大獄)したことで、

安政7年(1860)、水戸藩の脱藩浪士らに桜田門外で暗殺されました。

 

さて、JR桜木町駅から歩いて15分ばかりのところに、

横浜みなとみらい21を見下ろす小高い丘にある横浜掃部山公園があります。

横浜開港50年にあたる明治42年(1909)に、

公園内に井伊直弼の銅像が横浜の港の方を向いて建立されました。

 

その除幕式の講演で、大隈重信は井伊直弼を評して、

「凡そ政治家の最も貴ぶのものは、難に臨んで断ずるということ」。

老中も決断できなかったことを天が英雄を生じ、

英断を生んだとの賛辞を参列者の前で述べました。

 

さらに勝海舟も自著『開国起源』の中で、

「その責全く一人に帰し、隻手狂瀾を挽回せんとす」と記し、

全ての責任を一人で負い、手の施しようのない情勢を挽回しようとしたと、

井伊直弼の事績を高く評価する言葉を寄せています。

 

そのようなことが記された資料をいただき、

井伊直弼を見直す機会にせねばと、一人思うのでありました。