立身出世を体現された人 | 龍馬と夢紀行

立身出世を体現された人

今朝の通勤電車で庄内川を越えて名古屋市内に入った瞬間、

車窓から飛び込んできたメニコン関連会社の社屋を眺め、

ネットニュースや今朝の朝刊で報じられたメニコン創業者の死去を思う。

 

メニコン創業者・田中恭一氏は、

角膜コンタクトの実用化に日本で初めて成功した人で、

その後の社業発展から立身出世を体現された人物でもあります。

 

物事の嚆矢は戦後直後の出来事、

若かりし頃の田中氏が勤めていた名古屋市栄の玉水屋眼鏡店に、

コンタクトを装用した米軍将校夫人が来店したのがきっかけ。

 

コンタクトレンズに興味津々の田中氏が、

「コンタクトを見せてほしい」と懇願するもそれに応じなかった将校夫人。

それならばと一念発起したことが今日の角膜コンタクトの出発点。

玉水屋を退職して角膜コンタクトの実用化に乗り出したのです。

 

それゆえに玉水屋眼鏡店が、「コンタクトレンズ発祥の地」といわれ、

その後、田中氏は地元の一宮市に戻ってコンタクトレンズ会社を創業し、

現在のアピタ木曽川店の横手にある白山神社に近かったことから、

「コンタクトレンズ創業の地」なる石碑が建立されています。

 

玉水屋眼鏡店は江戸時代中期から続く老舗で、

名古屋のメガネ業界では一目置かれる存在でしたが、

残念ながら数年前にその長い歴史に幕が下ろされました。

 

たまたま、玉水屋眼鏡店の8代目に当たる津田社長とは、

私が広告代理店時代に仕事がらみで付き合いがありましたので、

前述のようなメニコン誕生秘話などもたくさん聞かせてもらっていました。

 

そして、どんな因果関係があったのか、

広告代理店時代の私のメインクライアントはメニコンのライバル会社。

ともに全国で店舗展開するコンタクト販売の両雄で、

バシバシと火花散る関係性の真っ只中に入り込んでの仕事でした。

今ではとても懐かしく感じています。

 

コンタクトレンズの発展に寄与された先駆者の死を、

謹んでお悔やみ申し上げます。