盛会をお祈りする | 龍馬と夢紀行

盛会をお祈りする

今週末の10日の日曜日に旧前川邸で開催される「山南忌」。

 

これまでコロナ禍による中止はあったものの、

今回の開催でもう18回目を迎える催事になったそうです。

 

二昔前に歴史の仕事を始めるようになった私は、

〝龍馬〟絡みの仕事でビギナーズラックも手伝い滑り出しに成功。

その次は〝新選組〟だといわんばかりに、

二匹目のドジョウを狙って「新選組 池田屋事件編」写真付き切手を企画。

 

そして、紹介されて訪れた先が新選組の屯所だった旧前川邸でした。

一般的に八木邸の方が知名度はありましたが、

旧前川邸は浪士組として上洛した文久3年(1863)2月から、

西本願寺の講堂へ屯所を移す慶応元年(1865)3月までの二年間、

新選組(前身は浪士組)が屯所として利用していたところです。

 

浪士組(後の新選組)の宿舎選定で、

役人からの信頼が厚かった前川本家が前川荘司屋敷を提供することに。

当時の面積は約900坪、建坪は273坪、部屋は12間あったといい、

向かいの八木邸よりも広かったため多くの隊士が詰めることになりました。

 

永倉新八の日記にも、

「旅宿は壬生村前川荘司宅となる。鵜殿鳩翁殿は南部亀次郎宅、

御目附、御取締、調役の三役と清河八郎は新徳寺本堂、

八木源之丞宅の離れ座敷に芹沢鴨の組下が入り、

近藤勇たちも同じ宿で、全員が慎んで宿泊した」と記されています。

 

旧前川邸には古高俊太郎を取り調べた土蔵や長屋門をはじめ、

山南敬助が切腹した居間など当時の佇まいを今に残しています。

 

私の仕事に話を戻すと、

初めて訪れたのは小雪がちらつく底冷えのする寒い日でした。

 

池田屋事件の発端となる古高俊太郎の拷問が行われた東の蔵に

名古屋から同行したカメラマンとともに入って撮影。

 

旧前川邸の現当主ご夫妻から親切なもてなしを受け、

懇切丁寧な説明と伝承などを聞かせてもらいながらの撮影となり、

非公開さとされていた東の蔵での撮影は興奮の極みとなりました。

 

それ以降も数々の歴史的な現場に出かけてきましたが、

やはり東の蔵での撮影は飛び抜けた印象度があり、

このとき以上の興奮というものは後にも先にもありません。

 

そして、「新選組 池田屋事件編」写真付き切手を商品化することができ、

成果品を持参しながら旧前川邸にお礼に伺ったとき、

山南敬助を偲ぶ「山南忌」という構想を当主から聞かされました。

 

そうして翌年から「山南忌」がスタートすることになりましたが、

今ではこの時期の京都の風物詩とさえいわれるような認知度に。

さぞかしご苦労も多かったのでしょうが、

とても素晴らしい新選組の顕彰活動の一環になっている感じ。

 

毎年、招待状をお送りいただいているのですが、

所用で出席がかなわず、昨日お詫びの連絡を入れさせていただきました。

今週末、京都の壬生での盛会をお祈りしております。