「名は体を表す」 | 龍馬と夢紀行

「名は体を表す」

「名は体(たい)を表す」とは、

「名前にそのものの本当の姿が表れている」という意味を持つ慣用句。

それゆえに名前には色々な思いが込められるケースがあります。

 

特に時代が混沌としていた幕末期、

念いの発露が名前に現れるケースが多く見受けられます。

 

例えば、浪士組を幕府に献策した清河八郎は、

出羽国清川村の酒屋の子で出身地に因み「清川」を名乗りましたが、

「川」の字が「小」に通じることを忌み嫌い、

安政元年(1854)以降に苗字の「川」を「河」に変更しています。

 

さすがに「予は回天の一番乗りを為さんとするものなり」と、

自信をのぞかせる人物だけのことはありました。

 

新選組三番隊組長で剣術師範だった斎藤一の本名は「山口一」、

新選組全盛期になると「斎藤一」を名乗り、やがて「山口二郎」と改名。

その後、会津に属していた頃には「一瀬伝八」として、

明治7年(1874)に旧会津藩士の娘と結婚すると「藤田五郎」としました。

 

こう見ると彼は漢数字がとても好きだったようで、

おそらく、彼なりのこだわりみたいなものがあったのでしょう。

 

さて、長州藩主だった毛利敬親は、ちっと風変わりなパターン。

毛利敬親の元の名は慶親(よしちか)でしたが、

討つべき相手の将軍・徳川慶喜の名に親しむように思えてならない。

 

そこで長州藩の士気を上げるべく一計を案じた高杉晋作らは、

「敬う」という文字を用いて「敬親」と変えたとされますが、

藩士が藩主の名前を改名するという前代未聞の珍事となりました。

 

そして趣味嗜好に纏わるこんな名前の話もあります。

無類の酒好きだった『日本外史』の著者・頼山陽は、
三男の誕生に際して「酒八(さけはち)」と名付けましたが、

祇園に同名の酒好きの太鼓持ちが居たことで家族が大反対。

 

それでああでもこうでもないと、名前が二転三転しながら、

最終的に「頼三樹三郎」という名に落ち着いたとされています。

 

本当に色々な名前の付け方があるものです。