幕末期における〝会談〟
幕末期、朝命により発足して政治的課題が議論された「参与会議」、
有力な大名経験者によって政治的課題が話し合われた「四侯会議」、
そして、王政復古後に徳川氏処分問題が取り扱われた「小御所会議」など。
変化する社会情勢の中で時代に対応するべく様々な会議が持たれました。
こうしてある程度の人数で話し合いをするものが〝会議〟とするなら、
これに対してトップ同士の少人数での〝会談〟というものがあります。
少人数でもその後の路線などを決定した重要な会談もありました。
幕末期における〝会談〟と呼称されるもの中では、
やはり西郷隆盛と勝海舟による「江戸城無血開城会談」が有名。
そしてその次となると、
この江戸城無血開城会談に先立つ山岡鉄舟と西郷の「駿府城会談」や、
河井継之助と岩村精一郎の「小千谷(おぢや)会談」あたりも、
歴史ファンの中ではよく知られた存在です。
しかし、これら以外の幕末期の会談となると、
そうそうと思い出せる会談は少なくなってしまいます。
そんな中で文久3年(1863)6月の「中津川会談」というものがあります。
江戸から上京してくる長州藩主・毛利敬親を、
木戸孝允が中津川で待って中津川本陣で行われた会談です。
木戸孝允はじめ長州藩の重臣たちが3日間協議した結果、
木戸らの主張によって長州藩は尊王倒幕へと決断することになりました。
そして、慶応2年(1866)5月には熱海の網代村で行われた「網代会談」。
フランスのロッシュとイタリアのアルミニヨンによる外国人の会談で、
イタリアがロッシュに条約締結の仲介を依頼するためのものでした。
この会談の甲斐あってか同年8月に日伊修好通商条約が締結されました。
また、慶応3年(1867)1月には長崎で「清風亭会談」が持たれました。
亀山社中を率い経営困難に直面していた坂本龍馬は、
土佐藩士の溝淵広之丞らの働きかけにより、
土佐藩参政・後藤象二郎と初対面での会談に臨みました。
仇敵関係だった二人は、土佐藩のために旧怨を捨て語り合い、
この会談によって龍馬は脱藩罪を許され、
さらに亀山社中は土佐藩所属の土佐海援隊へと発展的解消を遂げるのです。
歴史の表舞台にはなかなか登場しない会談ですが、
時代を動かすようなものが色々とあったのです。
そんな会談をまとめてみようと思い立ち、
来年の幕末手帳の巻末資料集で紹介するべく頁を作成しました。