「甲鉄艦(東艦)」について
幕末期における軍艦として一般的に認知されているのは、
やはり太平洋を横断した〝咸臨丸〟ということになるかもしれません。
その次に知られている軍艦になると、
榎本武揚に率いられ蝦夷地に渡り江差沖に沈んだ
幕府の最新鋭の主力艦だった〝開陽丸〟になるでしょうか。
そしてさらに次はとなると、
幕末ファンでないと中々思い浮かばないのが現状だと思います。
幕末期は、咸臨丸や開陽丸のように木造帆船が主流でしたが、
そうしたなかで異彩を放った軍艦がありました。
舷側を厚い鉄板で覆った新鋭艦「甲鉄艦(東艦)」です。
「甲鉄艦」は1864年にフランスで製造されましたが、
デンマーク、キューバ、アメリカと転々として、
やがて日本に渡ってくることになりました。
当初、江戸幕府がアメリカから「甲鉄艦」を購入したのですが、
慶応4年(1868)の引き渡しの時に新政府が成立したこと、
さらには鳥羽・伏見の戦いを戦端とする戊辰戦争が勃発したことで、
「甲鉄艦」は旧幕府軍と新政府軍による争奪戦の的になりました。
新鋭艦ですので戦局を左右することも十分考えられ、
互いの駆け引きが繰り広げられましたが、
最終的に新政府側に引き渡されることに落ち着いたのです。
そして、明治2年(1869)3月25日の宮古湾海戦では、
旧幕府軍の起死回生の策として「甲鉄艦」奪取の作戦が練られ、
甲鉄艦への接舷攻撃(アボルダージュ)が失敗し、
甲賀源吾と野村利三郎らが戦死して旧幕府軍が敗れました。
ちなみに、この戦いには旧幕府軍に土方歳三が、
新政府軍には東郷平八郎が参加していた戦いとなります。
たまたま「甲鉄艦」の図版を購入していたことから、
それを使用しながら再来年の幕末手帳の巻末資料のページに、
「甲鉄艦」のことを紹介しようと思っているところです。