蓮台寺温泉での松陰
今日は昨日触れた蓮台寺温泉について書きたいと思いますが、
少し長めになりますがどうぞお付き合いください。
さて、下田踏海における吉田松陰と金子重之助の道順は、
江戸を出立して伊豆半島の東海岸を経て下田へ向かったようです。
そして何とか下田の旅人宿に宿泊しできたものの、
「闇雲に浪人や一人者を泊めてはならぬ」とのお達しが出ていました。
下田奉行がペリー艦隊の下田入港によって、
尊王攘夷派が暴挙に出ることを危惧したから他なりません。
それでいて松陰の身体に疥癬(かいせん)の症状が出たこともあり、
松陰と金子は下田から3㎞ほど離れた蓮台寺温泉に向かいます。
既述のように取り締まり厳しい下田での宿泊が難しく、
松陰らは蓮台寺温泉の共同浴場で夜を明かそうとしたようです。
嘉永7年(1854)3月20日か、21日のことだと思われますが、
共同温泉に入浴する不審な物音が聞こえたことで、
浴場近くの医師・村山行馬郎が共同温泉に顔を出すと、
「長州の者であるが、どこの宿も泊めてくれないから、
この共同湯で夜を明かすつもりです」と松陰が素直に述べたという。
それを聞いた医師・村山行馬郎は、
「気の毒だから、下田奉行に内緒でうちに泊まりなさい」と、
二人を自宅に招きいれて三人の奇縁が生まれました。
結局、松陰と金子は黒船に乗り込みを敢行するまでの6日間ほど、
二人は村山家の世話になることにするのでが、
村山に信頼を寄せた松陰は、黒船での密航の全容を話すのです。
その話を受けた村山は、
躊躇することなく人目につかぬ自宅二階の八畳間に二人を匿うのです。
松陰はその二階八畳間において昼は書物を読み、
さらに密航することを訴えた「投夷書」なるものを認めるのです。
こうして漢文で書かれた「投夷書」には、
「外国行きは禁じられているが、私たちは世界中を見聞したい。
密航が知れると殺される。慈愛の心で乗船させて欲しい」と、
松陰の切実な訴えなどが記されていました。
下田の柿崎に上陸していた米国書記官に手渡されましたが、
この「投夷書」は現在アメリカ・エール大学に保管されていて、
松陰の熱い思いが現代に伝えられていることも記しておきます。
村山行馬郎邸宅(吉田松陰寓寄処)には、
松陰の居間として使われた二階の隠れ八畳間の部屋や、
松陰も使った内湯の浴槽が現存しています。
久しぶりに村山行馬郎宅(吉田松陰寓寄処)を訪れました。
無論、二階の八畳間にも足を踏み入れ、
松陰の気持ちを推し量りながら暫し空間を共有してきました。
たまたま今回は拝観できましたが、
老朽化に伴いこの秋から修復工事に入るそうです。
松陰の息吹が感じられる数少ない場所の一つ。
これからも残し続けて欲しい施設でもあります。