「太平記姉ヶ波大合戦志村政蔵勇戦之図」
過日に東京神田の馴染みの錦絵専門店で購入した武者絵。
題目は「太平記姉ヶ波大合戦志村政蔵勇戦之図」。
これだけでは、どの戦いの誰が描かれているのか、
詳しいことが分かりにくいと思いますので補足いたします。
この武者絵に描かれている内容は、
元亀元年(1570)6月28日に近江国姉川領域で繰り広げられた
織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍による姉川の戦いで、
さらにこの戦いで活躍した志村政蔵こと木村又蔵が主題となっています。
姉川の戦いについて振り返ってみると、
金ヶ崎の戦いで敗れた信長は岐阜城から2万を引き連れ、
浅井長政の本拠である小谷城へ進軍します。
織田軍の横山城への攻撃が始まると、徳川軍5000が参陣。
朝倉景健も1万を従え長政の救援にかけつけて大依山に布陣。
こうした中で浅井軍8000も合流し、姉川で両軍の攻防が繰り返されます。
やがてやがて浅井・朝倉軍が崩れ小谷城に撤退。
戦いに勝利した信長は決して深追いをしませんでしたが、
浅井、朝倉両氏の滅亡の遠因となった戦いでした。
さて、木村又蔵に話を戻すと、
この戦いに無断で参戦して朝倉家臣の豪傑・網島瑞天坊を討ち取り、
当時まだ無名の加藤清正の家臣になったといいます。
さらにそれ以降、常に清正から厚遇されたのですが、
その禄を返上して諸国漫遊に出て方々で活躍したといい、
そして最後には清正の墓前で割腹自殺を遂げたとされます。
ただ、この錦絵には異説もあり、参考までにここに付言るならば、
慶応4年(1868)閏4月6日から翌7日にかけ
市川・船橋戦争で敗走してきた幕府軍一隊と新政府軍が戦った房総での戦闘。
つまりは五井(ごい)戦争をモチーフにした錦絵ともいわれています。