天主閣を拝んでの出勤 | 龍馬と夢紀行

天主閣を拝んでの出勤

名鉄電車の「新清洲駅」東口の光景が変わった。

 

駅前ビルの解体や付近での整地が同時進行しているようで、

何やら駅前再開発といった趣が感じ取れます。

 

そんな既述の駅前ビルの解体によって、

通勤電車の車窓から見渡せる視野領域が広がり、

五条川を遡る視線の先に清洲城の天主閣が拝めるようになりました。

 

車内のつり革に手を添えながら読書が決まりの私ですが、

「新清洲」のアナウンスが車内で流れると、

一旦書籍から目を離して清洲城を眺めることが、

このところ条件反射のようになってきた感もあります。

それがまた通勤途上の一瞬のブレークタイムの様相も呈しています。

さて、今日はそんな清洲城に関しての話を少々。

室町時代に尾張の守護職・斯波義重が、

下津城の別郭として建てられたのが清洲城の始まりとされます。

 

その後、戦国時代に入ると織田信長の居城となり、

桶狭間の戦いの時にこの城から駆け出し今川を討ちました。

その直後には今川方だった徳川家康とこの城で同盟を締結(清洲同盟)。

さらに本能寺の変で信長が横死すると、

織田家の継嗣問題・領地再分配に関する清洲会議がここで開かれました。

 

そして慶長15年(1610)頃からは家康の命で、

町の機能全てが名古屋へ移転するという「清須越」が行われ、

当時6万人規模の都市を丸ごと移転するという前代未聞の出来事でした。

これにより清洲城は廃城へと追い込まれていくことになります。

 

色々と歴史の表舞台に登場することの多いお城の一つですが、

既述のように「清須越」の前までは、

清洲が尾張国の政治・経済の中心地として繁栄していました。

 

近年、清洲城には多くの人が訪れるようになり、

愛知県西部の観光名所として存在感を発揮しています。

 

そんな影響もあるのでしょうか、

現在、清洲城で初のプロジェクションマッピングが施され、

大いに話題を提供しているところ(12月25日まで)。

 

来年の大河ドラマで清洲城が登場することになると思いますので、

さらなる観光客誘致になっていくことでしょう。

弊社としてもとても楽しみです。