南への進路を取れ | 龍馬と夢紀行

南への進路を取れ

このところの朝の徒歩通勤ルートは、

名古屋駅前からユニモールの地下街を通って円頓寺方面へ。

古風な佇まいを残す四間道あたりで取って返して出社するパターン。

 

今朝のルートは気分転換も兼ねて、

名古屋駅前から真逆の方面へ歩き出してみました。

今日のコースは100メートル道路沿い。

20分ほど歩けば福島正則が掘削した堀川に架かる新洲崎橋に出ます。

 

話が枝道に入りますが、

広告代理店時代に名古屋駅前の毎日ビルからタクシーに乗り、

日本経済新聞社へ行く時は必ずこの橋を右折して向かいます。

今朝はタクシーではなくくだんのように徒歩でしたが、

かつての記憶がこの橋を渡ると条件反射のように思い浮かびます。

 

さて、そんな新洲崎橋の一角に洲崎(すざき)神社があります。

神社名がその由来を示すように、

おそらく太古この地は入江で洲崎になっていたのでしょう。

上前津と下前津の位置関係とこのポイントと結べば頷けると思います。

 

ちょうど通勤時間帯だったのですが、

スーツ姿にビジネスバックを持ったサラリーマン風の参拝者がちらほらと。

頭を垂れ両手を合わせたその先にあるもを勝手ながら推量。

 

願うことが力を生み出すこともありますので、

こうした善因善果のような気持ちを忘れずにしたいものです。

 

さらにこの神社の門前の石柱には、

「天壌無窮(てんじょうむきゅう)」という文字が刻まれていました。

天地とともに永遠に極まりなく続くさまを言い表しているようです。

 

最後は愛知県出身初の総理大臣になった加藤高明ゆかりの地。

加藤高明の妻は岩崎弥太郎の娘・春路で、

また新選組隊士だった佐野七五三之助は母方の伯父にあたります。

この佐野の関係性については、生前あまり多くを語っていなかったようです。

 

ちなみに佐野七五三之助は尾張国海部郡須成村の神職の子。

江戸で北辰一刀流を修めて伊東甲子太郎らと江戸で新選組に入隊。

慶応三年(一八六七)六月、新選組総員の幕臣取立に抗議し、

茨木司らと御陵衛士への合流を望んだがかなわず、

京都守護職邸の一室で同志らとともに自害しました。

そしてようやく会社近くの伏見通りに辿り着き、

今日はこんな感じの通勤ルートとなりました。