幕末の長崎を覗いてみる | 龍馬と夢紀行

幕末の長崎を覗いてみる

この度購入した「肥前国長崎絵図」について今日も少々。

 

詳しく調べるまでもなく、

記憶の範疇で長崎の関係各所を探してみました。

 

まずは丸山遊廓があった丸山町。

ここには寛永年間(江戸初期)に創業した料亭花月があるところ。

花月は、現在「おかっつぁま」を中心に史跡料亭として営業中。

慶応3年(1867)7月のイカルス号事件で海援隊に嫌疑がかけられ、

それに対して龍馬が書いた抗議文の下書きが存在しています。

 

そして土佐藩はこの対応に時間を要したことで、

薩土盟約が解消される要因になったともいわれています。

 

そしてその龍馬らが薩摩藩の庇護を受け、

慶応元年(1865)5月に結成した「亀山社中」はこの辺りにありました。

ここで薩摩と長州を結びつける秘密プロジェクトチーム(亀山社中)が、

やがて日本を動かす原動力となっていきます。

 

そして慶応3年(1867)4月23日、

亀山社中の発展的解消で生まれた土佐海援隊が運航する〝いろは丸〟と、

紀州藩船〝明光丸〟が瀬戸内海で衝突事件を起こします。

 

鞆の浦での談判は決着をみることがなく、

長崎に持ち越され談判が再開されることになりました。

その談判会場となったのが聖福寺で、その寺名を確認できます。

 

談判は土佐藩と紀州藩の間で行われましたが、

役者の龍馬は『万国公法』を持ち出して損害賠償交渉を行い、

紀州藩が賠償金8万3000両(のちに減額され7万両)を支払うことで決着。  

現在の金額に換算すると約70億円が支払われたことになります。

 

さらに、亀山社中の近くには「ナルタキ」の文字が見て取れます。

説明を要するまでもないかもしれませんが、

シーボルトが開いた私塾兼診療所の「鳴滝塾」があったところ。

高野長英、二宮敬作、伊東玄朴などが西洋医学などを学びました。

現在はこの辺に「シーボルト記念館」があります。

 

そして最後の場所は湾岸沿いの場所。

おそらく諏訪神社の鳥居が描かれていることから、

赤丸のここらあたりが現在のグラバー園だと思われます。

 

地図から拾った史跡などを紹介しましたが、

個人的に足を運んできた場所ばかりですので、少し懐かしさも。

こうして往時から見る地図もなかなか面白いものです。